akane
2018/07/31
akane
2018/07/31
先ごろ、最愛の母を亡くしました。数カ月経ってもまだ、消化し切れていません。その理由は二つあります。一つは、積極的な治療をさせず、また担当医師に不信感を持ちながらも早く、ムリヤリにでも転院させることをしなかった自分自身を責める気持ちが強いこと。
もう一つは、家族の要望になかなか応えず、必要なさそうな注射やどうでもいいリハビリ・検査など、過剰処置を繰り返した若い担当医師に対する怒りがおさまらないことです。私と担当医師が母を苦しめ、死期を早めたのではないか。そんな思いがないまぜになり、後悔ばかりが胸に渦巻いています。「医師を訴えたい」といきり立ち、次の瞬間には「母はそんなことを望んでないよね」と思い直すことの連続です。この気持ち、どうにかできないでしょうか。
アドバイスをお願いいたします。
愛する家族が亡くなると、誰しも「あのとき、ああしていればよかった。こうしていればよかった」という悔いを必ず残すものです。医師を責める気持ちを抑えられないこと、それは当然のことだと思います。「もっと患者の身になって対応してくれていたら」「もっと適切な治療をしてくれていたら」「もっともっと母を思いやってくれたら」と患者側の家族は誰しもそう思いますね。それは当たり前のことだと思います。お医者様は恨まれることはきっと多くて覚悟をしているのでしょうから、医師を怨んだっていいのです。
ただしあなたが辛くならなければいいですね。
あのね、亡くなったお母さんの気持ちを、無念をあなたが代弁しなくてもいいんです。お母さんを無念だと思う怒りを、あなたが代わりに怒らなくてもいいのです。
「お母さんはきっと、積極的な治療や手術を受けさせなかった私を怨んでいるよね」「お母さんは転院を認めようともせず、対応もぞんざいで、痛みを訴えても無視するような担当医師にきっと怒りを感じていたよね」「なぜあの時、なぜあの時」と無念なのは、お母さんではなくて、あなたなのです。
あなたの怒りや、悔しさは、お母さんの悔しさではないのです。
まずは、そこを冷静に理解いたしましょうね。
これからもあの医師の顔を思い出しては、訴えたいと怒りが沸き起こってくることでしょう。苦しいですね。でもね、その時に、これは誰の怒りなのかと思って下さいね。腹を立てながらも、これは「私の怒り」なのだと、気が付くと、怒りの感情が変わってきます。私の怒りは、お母さんの死に後悔を残したと悔やんでいる自分自身の怒りなのだということに、気づいて下さることでしょう。
自分の怒りは、やり場のない怒りです。やり場のない怒りは、誰か相手を見つけての怒りにしたくなります。
何度もいいますが、亡くなったお母さんは誰のことも怨んでいません。いまは生前のお元気だった頃のお姿のまま、あなたのそばで姿をみせてくださっています。憎しみや怒りを抱いて時を過ごすのはもったいないですね。お母さんの気配を感じたら、「痛みがなくなって、よかったね」とそう声をかけて下さい。
闘病中のお母さんは、体の辛さを訴えたことでしょう。「まだ死にたくない」と漏らすこともあったでしょう。でもね、還る時期が近くなると、魂が体から抜け出て好きなところに行っています。今生、お世話になった方、ご縁のあった方々に挨拶回りをしているのです。そのときにはもう、痛みも苦しみも怨みも消えています。そして亡くなる間際に、“体終い”をするために一瞬だけ体に戻ります。
けれど身体を離れると魂もじきに“魂の故郷”にお帰りになります。今、あなたがお母さんにしてあげることは、お母さんとの思い出話をしてあげて下さいね。
喧嘩したこと、笑ったこと、どうぞかたわらにいるように声に出して話し掛けてあげて下さいね。そのほうがお母様もずっとうれしいですね。
お身内が亡くなると、残された者には後悔が残るものです。
「充分尽くした。悔いはない」と思える人はごくごく僅かな人なのでしょう。
大半の人が「もっとできることがあったのでは?」と罪悪感に苦しめられます。
けれどもそんな苦しみを背負うことを、故人は望んではないのです亡くなった人には家族を責める気持ちはないのです。
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