「なぜ新政府への士族の乱が続発したのか?」 受験生&親は必読! 近現代史を“逆”からざっくり解説(最終回)
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ややこしい近現代史も、逆から読めば一気に理解できる!
『日本史は逆から学べ 近現代史集中講義』(光文社知恵の森文庫)の著者で『世界一受けたい授業』(日テレ系)の日本史講義などでもおなじみ、河合敦先生による“逆”からざっくり近現代史講義(全6回)。日本の近現代史を、「なぜ?」「どうしてそうなったのか?」と一問一答形式でさかのぼり、因果関係を分かりやすく解説していきます。

 

最終回は、開国から明治政府樹立についてです!

 

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Q1)なぜ武力で新政府を倒そうとする士族の乱が続発したのか? 

→新政府が長年の制度や慣習を破壊して徹底的な改革をしたからです。特に江戸時代に統治者として君臨していた武士は、この改革で代々受け継いできた社会的地位や特権を奪われたので、その不満から各地で反乱を起こすようになります。最大最後の反乱が西南戦争です。

 

Q2)なぜ新政府は全国規模の大きな改革をおこなうことができたのか? 

→廃藩置県によって中央集権を実現したからです。廃藩置県とは、270近くあった藩(大名家とその統治機構)を廃止し新政府を唯一の政治権力とする、かなり強引な権力奪取(クーデター)でありました。が、意外にも武士の間に激しい反発はありませんでした。というのは、廃藩となっても士族への禄(給与)は政府が支払うと確約したからです(この約束は数年で撤回されるのですが……)。

 

Q3)なぜ新政府は廃藩置県を断行したのか? 

→藩政改革で強大化した諸藩に危険を感じたからです。新政府は戊辰戦争に勝利しましたが、その軍事力の正体は、朝廷(天皇)の元に集った各藩の兵力の寄せ集めです。直属の兵力などありません。ですから、戦争が終わったことでほとんどが郷里に戻ってしまったのです。ゆえに新政府は成立したものの手元に残った兵力はごくわずか、という状態でした。「こんな不安定な状態で諸藩に反乱など起こされたら政権は瓦解してしまう」と考え、新政府は、廃藩置県を断行しました。

 

Q4)なぜ新政府は、戊辰戦争に勝利することができたのか? 

→寄せ集めの兵力とは言え、薩長の軍事力が強大であるうえに、天皇(朝廷)を奉じて官軍になることができたからです。そこで諸藩はこぞって新政府方につき、朝敵になることを嫌った前将軍・徳川慶喜も無抵抗で降伏したのです。

 

Q5)なぜ将軍・慶喜は、朝廷に政権を返還することに同意したのか? 

→このままでは勢いづいた倒幕派に武力で倒されるかもしれない。そこで将軍・徳川慶喜は、平和的に政権を朝廷に返す(大政奉還)ことで、倒幕派の勢いを削ぎ、場合によっては朝廷にできる新政府の盟主になろうとしたのでしょう。実際には実現しませんでしたが、それがあっさりと大政奉還に応じた理由だと思われます。

 

Q6)なぜ薩長両藩は、幕府を倒そうと考えるようになったのか? 

→第2次長州征討で敗北した幕府が、将軍慶喜の改革によって権威を復活させたことが大きいです。第2次長州征討で幕府の征討軍は、洋式化された長州軍に敗北を喫します。さらに征討のさなかに将軍・家茂が死去してしまい、幕府の権威は失墜します。そこで、新将軍に就いた慶喜は退勢を挽回しようと、幕政改革に乗り出しました。これが成功をおさめ、幕府は力を盛り返します。幕府の強大化に恐れをなしたのが薩長両藩です。薩摩は幕府と意見を異にしており、このままでは長州同様に討伐されてしまうのではないかと危惧しました。すでに第2次長州征討前、薩摩は長州と連携していましたが、幕府を倒そうとまで考えていませんでした。しかし長州一藩に幕府軍が敗れ、その幕府が改革によって強大化していくなかで、早急に武力倒幕を目指す動きが生まれたのです。

 

Q7)ではなぜ徳川幕府の力は弱まってしまったのか? 

→朝廷を奉じた尊王攘夷運動が激化し、これを幕府が弾圧した(安政の大獄)からです。幕府の大老・井伊直弼は尊攘派の水戸浪士たちに桜田門外の変で討たれます。大老が白昼首を奪われたことで、幕府の威信は失墜します。さらにその後、老中・安藤信正も坂下門外の変で襲撃されます。2度も最高指導者が襲撃されたことで、幕府の権威はますます低下していきました。

 

Q8)なぜ尊王攘夷運動が急速に国内に広まっていったのか? 

→列強に不平等条約を強いられ対外貿易が始まりますが、その結果、人びとの生活がほんの数年で苦しくなったからです。なぜなら海外輸出により生糸・茶などが品薄になり、これに連動して諸物価が高騰、庶民の暮らしは圧迫されるようになります。それに伴って外国人への憎悪感情が高まり、攘夷(外国人排斥)運動が高まっていったのです。

 

Q9)なぜ幕府は列強諸国に国を開き、貿易を始めてしまったのか? 

→強大な軍事力を持つペリーなど列強諸国に開国を強要されたからです。日本(幕府)は度重なるアメリカの脅しによって、仕方なく国際社会へと引きずり出されました。

 

Q10)なぜペリーは日本を開国させようと考えたのか? 

→日本を米清貿易と捕鯨船の寄港地にしたいと考えたからです。じつは19世紀になると、外国船が盛んに日本近海に出没するようになりました。その多くはイギリスやロシアの船で、イギリスではじまった産業革命の波が欧州に波及し、欧米各国が市場や原料を求めて、東南アジアを目指したのです。これら外国船に対し、日本は異国船打ち払い令を出していました。ですが隣国・清がアヘン戦争でイギリスに大敗を喫したことを知り、武力による対応を控え、薪水給与令という穏便な政策に方向転換します。
その後、1844年にはオランダの国王が幕府に開国を進める親書をもたらしました。「いつまでも鎖国していると清国のようになってしまう」と記されていましたが、幕府はこの勧めを謝絶します。ですが開国への流れは止められず――、その10年後に幕府はペリーの要求に屈し国を開きます。1854年3月の事でした。
ここから、日本の近代が始まります。

 

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この記事は『日本史は逆から学べ 近現代史集中講義』を基に作られました。
より詳しい解説が気になる方は書籍をチェックしてみてください!

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日本史は逆から学べ 近現代史集中講義

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河合 敦 (かわい あつし )

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