認知症の人の「できたことが、できなくなっていく苦しみ」
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料理ができなくなる苦しみ

帰省したところ、お母さんが「この頃、料理が下手になっちゃった」と言い、刺身を買って用意してくれていた、と話していた知人がいます。私の母も、数年前までは帰省すると手料理を作ってくれましたが、しばらくすると「お寿司を取ろうか」などと言うようになりました。

 

認知症の人が暮らすグループホームでは、入居して間もない頃は、みんなで夕食を作ったりしますが、時間が経つにつれて、料理をしなくなります。認知症が進んで、料理ができなくなるのです。

 

料理は、何を作るかを決め、ストックしてあるものを確かめて、足りないものを買い、手順を考えて、同時にいくつかの作業をこなしながら作ります。遂行機能をフルに使う複雑な行為であり、認知症になるとスムーズにできなくなっていきます。

 

そのため、認知症になると、刺身や焼き魚といった簡単なメニューばかりになったり、お寿司を取ろうかということになったりするのです。

 

ただし、料理を作り慣れている人は、1つの作業、たとえば包丁を使って切ることだけならば問題なくできます。

 

そこで、グループホームでは、職員が「キャベツを千切りにしてください」などと1つずつ指示をして、作業をしてもらいます。最初のうちは、そうすれば料理を完成させることができるのです。

 

ところが、認知症が進行すると、切っているうちに何をしているか忘れてしまい、いつの間にか千切りではなく、ざく切りになっていたりします。予定とは違うものになってしまうわけで、そうなると料理を完成させることが難しくなります。

 

夕方になると家に帰ろうとする認知症の女性たち

その一方で、グループホームなどの施設には、夕方になると家に帰ろうとする女性が大勢います。自宅にいても帰ろうとする人もいます。いずれにしても、「家に帰って夕食の支度をしなくては」と思うようなのです。

 

家族のために夕食を作ることが、一家を預かる主婦としてのアイデンティティに深く結びついているのです。

 

家族のために料理の腕を振るい、「おいしい」とみんなが笑顔になる。それは幸せの象徴でもあります。

 

ところが、「あの子が帰ってくるから、好きだった料理を作ってやろう」と思ったのに、作れない。

 

料理の途中で、何を作ろうとしていたのかわからなくなった。食べてみたら、味がおかしかった。鍋を火にかけたままほかのことに気を取られ、危うくボヤを出しそうになった。

 

そんなことが重なって、どんどん自信がなくなっていきます。

 

それで、「料理が下手になっちゃった」と、言い訳をした。そのときの知人のお母さんの気持ちを思うと、胸が痛くなります。

 

私の母も、きっと同じような気持ちだったのでしょう。あなたのお母さんは、どうでしょうか。

 

車を運転できなくなることの意味、そして苦しみ

車の運転も、料理と並んで遂行機能をフルに使う複雑な行為です。認知症になれば、運転に適さなくなります。

 

しかし、長年運転をしてきた人にとって、車は単なる移動手段ではありません。

 

社会人になって、初めて買った車。その車に恋人を乗せて行ったドライブ。失意の中、一人車を走らせた夜の道。子どもができて、家族で遠出したときのこと。

 

さまざまな思い出が、車には詰まっています。

 

さらに車は、自分の意思でどこにでも行けるという、自由の象徴でもあります。足腰が弱って長い距離を歩けなくなればなるほど、駅の階段がつらくなればなるほど、車は大事なものになるのです。

 

もちろん私は、危険な運転を放置していいと言っているのではありません。自分だけでなく他者をも傷つける可能性がある以上、認知症の人が運転免許を持てないのは仕方がないことです。

 

ただ、車を運転できなくなるとは、自由を失うことであり、幸せの象徴を失うことでもある。そのことがつらいのです。

 

 

以上、『認知症の人の心の中はどうなっているのか?』(佐藤眞一著、光文社新書刊)から抜粋・引用して構成しました。

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認知症の人の心の中はどうなっているのか?

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佐藤眞一(さとうしんいち)

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