言いやすい地名から引っ越すことができない――吃音者の悩み(4)
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bw_manami

2019/01/25

 

自ら吃音があり、幼少期から悩み苦しんできた医師の菊池良和さんは、吃音の苦しみから逃れようと、ときに「死」が頭をよぎったといいます。当時は、吃音の相談で病院に行くという発想はほとんどなかったころです。あるとき菊池さんは、「医者に診てもらえないなら、自分が医者になればいいんだ。そして吃音の解決法を見つければ、自分の悩みは消えるのではないか。そして10年も経てば、この悩みから解放されるのではないか」と思うようになり、医学部に進学することになります。大学入学後、菊池さんはどんな思いを抱えながら過ごしていたのでしょうか。

 

「死」は避けることができた

 

無事に大学に入学できたという安心感もあったのでしょう、私は「死」からは逃れることができました。医学部に入れば吃音から救われると思っていたこともあり、これで、今までの悩みから解放されると思っていたのです。しかし、実際にはそう単純なものではありませんでした。大学入学後に、健康診断で内科の医師と話す機会がありました。

 

「僕はときどき言いたい言葉が出なくなるのですが、どうしたらいいですか?」

 

と尋ねると、

 

「2年生で呼吸生理を習うから、心配しなくていいよ」

 

と、その医師は言いました。そのときは、なるほど、呼吸の生理を学べば吃音は解決するのかと安泰な気分になったのですが、2年生になって生理学を学んでも、「言葉が出なくなる」という話は一度も出てきませんでした。ましてや吃音の話など皆無です。期待していた分、私は大きく落胆しました。

 

「やっぱり誰も私のことをわかってくれないんだ」。私はそのように感じました。

 

大きな損失

 

私はそもそも、自分のしゃべり方の問題がいったい何なのかがわかっていませんでした。確かに昔は「き、き、き、きくち」と言葉を繰り返すどもりでしたが、そのころには「………きくち」と最初の言葉がなかなか出ない症状になっていました。

 

昔はどもりだったけれど、今は違う病気になった。そう思っていたのです。

 

大学に入るまで、私は「吃音」という言葉を知らず、どもり、つまり吃音には、連発や難発などいろいろな種類があることも知らずにいました。正しい情報を持つことなく、一人で悩みを抱えこんでしまったことは、その当時の自分にとって大きな損失だったと思います。「私とは何なのか?」「自分は何なのか?」と悩むときに、自分が抱える問題について正確に知っていれば、余計な回り道をする必要がなかったはずだからです。自己のアイデンティティの確立には、正確な情報があるほうがいいと、今になって思います。

 

強い恐怖感

 

大学入学後、一人暮らしをするかどうかで迷いましたが、結局、実家の下関から通学することに決めました。新幹線とバスを乗り継いで片道約2時間。東京や大阪などの都市圏では珍しいことではないのかもしれませんが、九州では稀であり、友人からはよく不思議がられました。

 

「すごいねー」

 

「大変じゃない?」

 

「親孝行やねぇ」

 

実家を出ない一番の理由には、やはり吃音が関係していました。引っ越し先の住所が言いにくい名前だったら嫌だと思ったからでした。「しものせき」という地名はとても言いやすかったので、その環境が変わるのを回避したい気持ちが強かったのです。

 

私は、吃音を隠すために余計な労力を使う「吃音恐怖症」という状態でした。新しい住所になるくらいならば、新幹線通学のほうがマシだと思ったのです。

 

大学生活が始まって何よりも困ったのは昼食でした。食券制の店と、口頭で注文を伝えて現金払いする店があったのですが、私はいつも食券を買える店を選ばざるを得ませんでした。また、周りがざわざわする場所で話すのもとても苦手だったため、食堂は自分にとって居心地のいい場所ではありませんでした。どもりの症状は通常より強くなります。そうした中、一生懸命自分の話を聞こうとしてくれる相手に向かってどうでもいいような話をするのは、とても疲れるのです。たとえば、

 

「あ、あ、あ、……」

 

となかなか言葉が出ないとき、相手はご飯を食べる手を止め、身体を近づけて聞き取ろうとしてくれます。しかし、ようやく出てきた言葉が、

 

「あ、雨が降ってきたねぇ」

 

だったりします。つまり、相手の手まで止めて言うほどでもない内容です。これが、しゃべるときの一番の迷いでした。どうしても言わないといけない場面での言葉は、どもろうがどうしようか言いますが、雑談ではそうではない内容であるがゆえに難しいのです。

 

盛り上がっている会話にさらに面白いことを言って笑わせたいけれど、

 

「つっ、つっ、つっ……」

 

と、最初の言葉が詰まってしまうとみんなが注目して聞き耳を立てます。その中で懸命に絞り出した言葉が面白くなかったら、場が冷めてしまう。そんな想像をしてしまい、なかなか会話に入れないのです。それゆえ、飲み会に誘われてもほとんど断っていたような気がします。自分が一番苦手とする騒がしい環境で雑談をするのには強い恐怖感がありました。

 

以上、『吃音の世界』(菊池良和著、光文社新書)の内容を一部改変してお届けしました。

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吃音の世界

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菊池良和(きくちよしかず)
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