切符が買えない、電話が怖い――時代とともに変化する――吃音者の悩み(9)
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九州大学病院に勤務する医師の菊池良和さんは、幼少期から吃音で悩み苦しんできました。
そして中学生のとき、「吃音の悩みから解放されるには、自分が医者になるしかない」と心に決め、実際にその道に進みました。その後、「吃音ドクター」として、吃音を医療・福祉の対象に引き上げるために孤軍奮闘することになります。しかし、近年に入って、吃音をめぐる状況に変化を感じているそうです。ここでは、菊池さんが刊行した『吃音の世界』(光文社新書)から、「時代の変化と吃音」について書かれた内容を抜粋して紹介いたします。

 

吃音をテーマにしたものが続々と現れる

 

最近、出演者が全員吃音者という「吃音ラジオ」に象徴されるように、テレビ・ラジオ・新聞・書籍を通して、吃音をテーマにしたものが多く見られるようになりました。例えば、これは出版に限った話ですが、吃音のある子ども、吃音のある子どもの保護者、教育現場の先生、言語聴覚士など28人による「吃音」の理解と啓発への取り組みを記した手記『「吃音」の正しい理解と啓発のために』(堅田利明編著、海風社、2018年)、これまであまり取り上げられることのなかった発声や発音の練習をテーマにした『自分で試す吃音の発声・発音練習帳』(安田菜穂・吉澤健太郎著、学苑社、2018年)、美学やアートの視点も交えて吃音に着目した『どもる体』(伊藤亜紗、医学書院、2018年)、自ら吃音者で、当事者たちの現実にリアルに迫ったノンフィクション『吃音――伝えられないもどかしさ』(近藤雄生、新潮社、2019年)など、さまざまな人たちがさまざまな角度から吃音を語るようになってきました。

 

この背景には、吃音の専門教育を受けた国家資格である言語聴覚士の誕生、障害者の暮らしやすい社会に向けた市民の意識の変化、そして発達障害者支援法の成立や障害者差別解消法の成立といった時代の変化があり、その中で必然的に増えてきたものだと言えるでしょう。わかりやすく言い換えれば、ハンディのある人の人権擁護の機運が高まっているとも言えると思います。

 

「医学モデル」と「社会モデル」

 

「医学モデル」と「社会モデル」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか。医学モデルとは、障害者が直面する困難や社会的不利はその人個人に問題があるとする考え方です。一方の社会モデルとは、障害者が直面する困難や社会的不利は社会の問題だとする考え方です。つまり、前者では障害者を「個人の問題」として捉えるのに対して、後者では「社会の問題」として捉えています。

 

たとえば、足が悪くて車いすに乗って移動する人がいるとします。その車いすでは段差が乗り越えられないため、その人は段差のあるところには行くことができません。それならば、リハビリをして歩けるようになればいい、という発想が医学モデルです。一方、障害が生じるのは段差があるためで、段差をなくしてバリアフリーにすればよい、という発想が社会モデルです。

 

吃音で考えると、吃音で他者とうまくコミュニケーションができないのは吃音者本人の問題であり、それゆえ話し方の訓練などによって吃音の軽減のために努力すべきだ、と考えるのは医学モデルの考え方です。それに対して、コミュニケーションは言葉のキャッチボールであり、話し手に吃音というハンディがあるならば、聞き手のほうがそれを理解して適切に対応することで、コミュニケーション上の問題を軽減することが望ましいと考えるのが社会モデル的な考え方です。

 

日本では、2000年以降に社会モデルの考え方が広まっていきました。たとえば、前述した「障害が生じるのは段差があるためだ。だから段差をなくしてバリアフリーにすればよい」という発想の流れを受けて社会的に認定された例の一つに、2006年6月21日に制定された、「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(通称、バリアフリー新法)」があります。また、2016年には、「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(通称、障害者差別解消法)」が施行されました。

 

吃音症はこの法律の対象ですが、実際、この法律が施行された後、高校や大学の入試の面接試験での合理的配慮は求めやすくなっています。たとえば、「入試面接で吃音が出たらスムーズに話せなくなります。それによって減点されることはないのでしょうか?」という相談を吃音者から受けたことがあります。そのとき私は、「時間的な余裕の確保、および聞く側の寛容な姿勢をお願いします」という旨の要望書を書いて大学側に提出したことがあります。すると、実際に大学側の配慮を得ることができました。また、公務員試験、英検、秘書検定でも同様の要望書を提出して配慮を得られた経験があります。今後、少しずつそうした対応が社会に広がっていくことを願っています。

 

切符が買えない

 

吃音のある人の悩みは、時代とともに変わっています。現代は、以前の時代と比べると、どちらかといえば吃音のある人が暮らしやすい社会へと変化していると言えるでしょう。

 

昭和の時代、吃音者の悩みとしてよく聞いたのは、電車の切符購入時の話です。まだ自動販売機が普及していなく、切符を買うには、駅の窓口の列に並んで、口頭で駅名を言わなければならなかった時代のことです。

 

ある人は、行き先が言いにくい名前だったために、窓口で駅名を告げることができず、買うのを一旦諦めて、列の一番後ろに戻って並び直した話をしてくれました。そして列が進んで再び自分の番になったとき、また言えなくて並び直し、なかなか切符を買えなかったという経験があったといいます。

 

また別の人は、「高田馬場」という駅名が言いづらく、一つ先、二つ先の、料金が同じで言いやすい駅名を言って切符を買うようにしていたそうです。

 

電話が怖い

 

もう一つ、大きく変わったのは、電話です。かつて固定電話しかなかった時代は、吃音のある人にとっては大変で、私には、小中学生時代の嫌な経験がずっと記憶に残っていました。

 

中学時代、友人宅に電話をして相手が出たとき一切言葉を発することができなかったことがありました。

 

「………」

 

喉に鍵がかかってしまったようでした。電話口から、

 

「もしもし、もしもし」

 

という声が聞こえるのですが、第一声を出すことができません。「菊池ですが、○○君いますか?」と、言うべき文章は頭の中にしっかりとあるのに、声にすることができません。そのうち、

 

「いたずら電話はやめてください」

 

と怒られ、電話を切られました。話そうとする努力を声として外に出すことができず、逆に誤解された結果、疲労感と自己否定感など複数の感情が入り混じった気持ちになりました。

 

そうした経験を繰り返すうちに、電話をかけるのも受けるのも嫌になっていくのです。実際、成人の吃音のある人が一番困難に感じているのが電話です。たまに私は思っていました。「電話がない世の中ならば、吃音のある人は困ることが減るのになぁ」と。

 

しかし、携帯電話の登場はその状況を劇的に変えました。

 

私は初めて携帯電話を持ったとき、感動しました。相手に自分の名前を登録してもらえれば、こちらからかけたとき、自分の名前が相手の携帯の画面に表示されるからです。すると自分の名前を言う必要がなくなるため、精神的にとても楽なのです。

 

また、固定電話のみの時代には、社内で電話するとき自分のどもっている声を周りの人に聞かれるのが心配だという人もいましたが、携帯電話があれば、少し離れた場所で、周りに聞かれないように話すこともできます。それで助かっているという人もいました。

 

「現在」という時間を取り戻す

 

私は23歳になるまで、どもっている「現在」の時間を記憶に入れないようにしていました。つまり、「もどること=悪いこと」と思う私自身の気持ちが引き起こす悪循環によって、無意識のうちに、どもっている「現在」の記憶を頭の中から消去していたのです。どもっている「時間」をなるべく早く頭の中から消そうとするために、どもるときの喉・舌・顔・身体全体の反応は自動化され、自分ではコントロールできないものになりました。

 

そして「現在」という時間を意識しない代わりに、私は、どもってしまうのではないかと先のことを心配する予期不安の「未来」と、どもってまた失敗してしまった、なんて自分はダメな人間なんだと劣等感を感じる「過去」の時間はちゃんと頭の中に刻み込んでいました。周りの人は、私がどもっている「現在」の時間しか見ていません。しかし、私にとっては「未来」と「過去」が問題となっていたのです。自分の吃音を客観的に見られるようになったとき、そのことに私は初めて気がつきました。

 

しかし、「どもってもいい」と思えるようになると、「未来」「過去」への意識がなくなり、どもっている「現在」の時間を取り戻すことができるようになります。「どもってもいい」という言葉は、「今の状態を諦めなさい」という意味ではありません。吃音のある自分を肯定するだけでなく、「時間」と「緊張」をコントロールできるようになるための言葉でもあるのです。

 

以上、『吃音の世界』(菊池良和著、光文社新書)の内容を一部改変してお届けしました。

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菊池良和(きくちよしかず)
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