123億円で落札!バスキアと元パートナーの成功を分けたものは?
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bw_manami

2019/06/18

世界的な理論物理学者でネットワーク理論の権威、アルバート=ラズロ・バラバシ。複雑な世界をハブやノードといった用語で解き明かしてきた彼は、「人の成功」という最も身近な現象について、ありとあらゆる分野の膨大なデータを10年以上の年月をかけて析し、とうとう成功者に共通するパターンを見出しました。それをわかりやすく、解説した新著『ザ・フォーミュラ 科学が解き明かした「成功の普遍的法則」』が全米ベストセラーとなっています。本コラムでは、『ザ・フォーミュラ』の中から一部を抜粋して、内容を紹介します。

 

アート界の双生児

 

 

「SAMO(セイモウ)は馬鹿と狂人を救う」

 

マンハッタンの路地裏のドアに、ブロック体の文字が並んだ。奇妙な落書きだった。1977年、詩的ながらも同じように皮肉めいた声明が、とつぜんニューヨークのあちこちに出現した。

 

「SAMOは免責条項」

 

「SAMOはプレイイングアートの最終形」

 

「SAMOは実験動物を癌にしない」

 

そして1999年、簡潔な宣言を最後に落書きはぴたりと止んだ。「SAMOは死んだ」

 

確かにSAMOは死んだ。ふたりのグラフィティ・アーティストはユニットを解消し、別々の道を歩むことにしたのだ。SAMOのひとりはアル・ディアス。まだ若いにもかかわらず、その世界ではすでに実績を積み重ねていた。1974年に、作家のノーマン・メイラーが序文を寄稿したグラフィティ・アートの写真集が発売されると、ディアスの作品も掲載された。彼らのように地下で活動するアーティストにとって、ありがたくない名誉だった。ディアスは単独でも、SAMOというユニットでも活動した。名前の由来は、いかにも未熟で青くさいものだった。ふたりはマリファナを吸い、それを「the same old shit(あのいつものヤツ)」と呼んでいた。やがて冠詞と最後の言葉が落ちて「same old」になり、さらに語尾の子音が落ちて「SAMO」になった。そのペルソナの下、ふたりはスプレー缶を手に街のあちこちに出没しては、メッセージを書きつけていった。そして仲が悪くなった。

 

科学者は対照実験を好む。そうすれば、出発点の似通ったふたりが時とともに分岐していく様子が観察できるからだ。「生まれか育ちか」「遺伝か環境か」というテーマに対する私たちの深い理解も、100パーセント同じ遺伝子を共有する、一卵性双生児の生活を観察する研究がもとになっている。今回取り組むのは、SAMOをテーマにした“アート界の双生児”調査である。調査対象は、生まれ育った環境や年齢も同じなら、生み出すアートもそっくりのふたり。ところが、そのふたりはとつぜんユニットを解消して、違う道を歩むことにした。さてその後、ふたりはどうなったのか。

 

アル・ディアスはいまでもニューヨークのアート界で活躍しているが、ほとんどの人はその名前を聞いたことがない。彼の名声はSAMO時代のものだからだ。そのSAMOはいまから40年前、ディアスのパートナーがひとりでやっていくと決めた時に終わりを告げた。

 

そして、そのパートナーも麻薬の過剰摂取でずいぶん前に死んだ。27歳の若さだった。だが、彼の作品は不朽の名声を得た。「SAMOは死んだ」というメッセージがソーホーの通りに出現した二年後、ディアスのパートナーはスプレー缶とオイルスティックを使って大きな頭骸骨の絵を描いた。2017年、『無題』と題されたその肖像画は、アメリカ人アーティストの作品としては、史上最高額の1億1050万ドルで落札された[訳注 落札者は前澤友作氏]。アーティストの名前は、ジャン=ミシェル・バスキア。

 

成功という点で言えば、ディアスとバスキアは、出発点を同じくするふたりが明暗を分けた理由を知る絶好の例だろう。ふたりは同じ時期に、同じ場所で活動を始めた。ふたりの作品は当初、ほとんど見分けがつかなかった。だが、ひっそりと作品を発表していたディアスに対して、バスキアは生きているあいだはセンセーションを巻き起こし、死後も名声をほしいままにした。

 

パフォーマンスが測定できない時には、ネットワークが成功を促す

 

だが、ふたりの軌跡はなぜ大きく分岐したのだろうか。

 

ディアスとバスキアには決定的な違いがあった。ディアスは一匹狼。いっぽうのバスキアは大胆なネットワーカー。それは、SAMOがまだ青くさい声明を落書きしていた頃から明らかだった。ディアスはふたりの正体を秘密にしておきたかった。ところがバスキアは、ニューヨークのコミュニティ紙『ヴィレッジ・ヴォイス』に、100ドルでふたりの正体を明かしてしまった。

 

ふたりの違いを表すエピソードはそれだけではない。実際、バスキアはギャラリーで開く展覧会の作品をキュレートしていくように、アート界での関係を慎重に築いていった。当時、ニューヨークのアートシーンに君臨していたアンディ・ウォーホルに、ティーンエイジャーのような不遜な態度で近づいて取り入り、生計を立てるためにスラム街で売っていた手描きのポストカードを1枚買ってもらっている。バスキアはそれを機にウォーホルと親しい関係を築き、親交はウォーホルが死ぬまで続いた。だからと言って、ウォーホルとだけ付き合っていたわけではない。スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ[訳注 マンハッタンにある商業アートやデザインの芸術大学。ポップアートシーンの隆盛を担った]付近をうろついて、アート界に彗星のごとく現れたキース・ヘリングと出会い、デートするようになった。また、ケーブルテレビ番組の「TVパーティ」のプロデューサーとも親しくなって番組に出演し、ちょっとした地元のセレブにもなっている。

 

 

だが何よりも大きいのは、イーストヴィレッジのアーティストたちとのあいだで広い人脈を築いていたディエゴ・コルテスを、バスキアが見つけ出したことだろう。キュレーターのコルテスはあるグループ展で、アンディ・ウォーホルやキース・ヘリング、写真家のロバート・メイプルソープの作品と並べて、バスキアの線画や絵画を20点も展示してくれたのだ。彼の作品はニューヨークの高名な画商の目にとまった。展覧会のオープニングパーティの夜が明けると、バスキアは父が住むブルックリンのアパートメントに駆け戻って大声で言った。「パパ、やったよ!」その通りだった。その前夜、展示作品が何点か、2万5000ドルで売れたのだ。1980年代前半としてはかなりの大金だった。重要な人脈を慎重に、積極的に築き上げることで、バスキアはたった2年で、ホームレスのティーンエイジャーからスターアーティストへと上り詰めたのである。いっぽうのディアスは、地下で活動し、ストリートアートを生み出し続けた。

 

バスキアが取り憑かれたように生き急ぎ、若くしてヘロインの過剰摂取で死んだことも、彼の名声を不朽のものにした。だが驚くのは、その成功が作品の素晴らしさとはほとんど関係のないことだ。何と言っても、バスキアはアーティストとしてディアスと同じDNAを持ち、意図的だったとはいえ、ふたりの作品はほとんど見分けがつかなかった。そしてまた、カラフルで濃い色の背景に黒のスプレーで頭蓋骨を描いた1982年作の『無題』に、アメリカ人アーティストの作品として史上最高額の落札額がついたのも、作品本来の質が理由ではない。

 

実際、作品を見ただけで、その価値を見出したり評価したりできる者はいない。重要なのは、キュレーター、美術史家、ギャラリーのオーナー、美術商、エージェント、オークション会社、蒐集家たちの見えないネットワークである。美術館に収まる作品を決め、絵画に喜んで支払う額を決めるのも、その見えないネットワークだ。それは、美術館の壁を飾る作品を決めるだけではない。あなたがわざわざ並んで観る絵画までも、決めてしまうのだ。

 

そこには、成功について論じる時に避けて通れないテーマがある。すなわち「成功は集団的な現象であり、パフォーマンスに対する社会の反応によって測定される。そのため、成功という現象を理解するためには、成功が生まれるネットワークについても観察しなければならない」ということだ。しかも、パフォーマンスや作品の質を測定するのが難しいアートのような世界において、ネットワークは極めて重要である。相互につながったネットワークが成功に及ぼす影響の大きさには、私のようなネットワークサイエンティストですら驚くほどだ。

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ザ・フォーミュラ――科学が解き明かした「成功の普遍的法則」

ザ・フォーミュラ――科学が解き明かした「成功の普遍的法則」

アルバート=ラズロ・バラバシ(Albert-László Barabási)

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