『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』著者インタビュー村岡恵理【KEY WORD 1】宝塚歌劇
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「君といつまでも」「男の子 女の子」などの大ヒット作詞家として、また越路吹雪の生涯のマネージャーとして、昭和を駆け抜けた異才の人、岩谷時子。
その生涯を描く渾身のノンフィクションを発表した著者の村岡恵理さんに、『宝塚歌劇』『2足のわらじ』『加山雄三と坂東玉三郎』3つのキーワードで、本にまつわるさまざまなエピソードを伺った。

 

写真提供/岩谷時子音楽文化振興財団

 

この本を執筆されるきっかけは?

 

「岩谷時子音楽文化振興財団の理事であり、東芝レコード時代にディレクターとして坂本九さんの「上を向いて歩こう」などを担当された草野浩二さんから『岩谷時子さんのことを書きませんか』と言われて、すぐに『やりたい』と思いました。

 

まずは、岩谷さんが訳詞家であり作詞家、ことばの世界の人だったということです。また、私の亡くなった母が越路吹雪さんの大ファンで、岩谷さんは、その越路さんの生涯を通してのマネージャーだった方、深く考える以前に自然と心惹かれていました。越路さんを主軸にした物語や舞台は、それ以前にも、ピーターさん主演の『越路吹雪物語』など見ていましたが、つねに一歩下がって控えている岩谷時子さんという存在について、もっと知りたいと思いました」

 

人物像はご存知でしたか?

 

「ほとんど知らなかったに等しいです。お名前はよく聞くし、ミュージカルなどのパンフレットでも幾度となくクレジットを見かけているのに、そういえばこの人のことを良く知らない。財団が管理している、若い頃から晩年に至るまでの岩谷さんのお写真を見せていただく機会があり、その面差しというか、たたずまいにも強く惹かれました」

 

女優のような美人ではないけれど、美しい方ですね。

 

「芸能界って、魑魅魍魎がうようよしていそうな世界じゃないですか(笑)。それなのに、岩谷さんは年を重ねるごとにむしろ知的に静かに、どこか教職者とかシスターのような雰囲気に、顔がだんだんつくられていく。芸能界の中で、ああいった美しさを保ち続けたというのは、本当はすごく強い人なんじゃないか、と。経歴の表面だけ見ると、昭和初期に神戸女学院を卒業した才媛で、宝塚で越路さんと出会って、順調に歩いて行ったように見えるかもしれないけれど、そうではない。穏やかに見える面差しの奥には、ものすごい闘い、葛藤があり、それを乗り越えて、あの美しさになられていったのではないかと」

 

今回、日記など貴重な資料をあたられて、意外だった点は?

 

「意外というよりも、思っていた以上に強い女性だと感じます。太平洋戦争が始まった頃、お父様を亡くされたんですが、彼女は親戚からの縁談をすべて断って、お母様を支えて自分が一家の大黒柱になる道を選ぶんです。女性は結婚か親類に身を寄せるのが常識という時代で、それは社会状況の中で、選択肢うんぬん以前の問題でした。でも、岩谷さんは、自分の手で何か仕事をして生き抜きたい、という強い思いをあの不自由な時代に貫いて、現にそのように生きられた。

 

並々ならぬ強さです。戦争というもう一つの大きな波も受けて、女性だけではなくて日本人全体が、なかなか自分の夢を追いかけられる時代ではなかったのですから」

 

そのきっかけになったのが、宝塚歌劇。

 

「岩谷さんのエッセイに、『幼い頃から、情操のすべてを宝塚歌劇から与えられた』という言葉があります。少女の頃から親しんだ戦前の宝塚歌劇を通じて、岩谷さんは美しいことば、美しい色彩を心に刻んで、その後そこで、仕事も得ていきます。強さと同時に、乙女ごころ的なものを生涯持ち続けるのが岩谷さんの特徴ですが、それを守ったのが宝塚なのかな、と。岩谷さんはひとりっ子だったし、孤独だった。でも宝塚でたくさんの愛情、たくさんの姉妹を得て、キャリアの基礎も築いた。人生のすべてを宝塚から受け取ったと言ってもいいでしょう」

 

神戸女学院からの影響も大きかった?

 

「岩谷さんは、神戸女学院が神戸から西宮市の岡田山に移ったさいに、W. メレル・ヴォーリズが設計した洋風建築の校舎(重要文化財)で学んだ第一期生でした。私も見学させていただきましたが、精神的なものを感じる、それは素晴らしい校舎です。しかもまばゆいばかりの新築の時に、本物の富裕層の令嬢たちに囲まれて岩谷さんはそこにいたのです。上質な西洋文化や、洗練された、洒落たものへの憧れに目覚めた。背景には、小林一三が築き上げた阪神間モダニズム、山の手文化がありました。岩谷さんにとって呼吸がしやすい場所だったでしょうし、憧れや、文化的な情操も培ってくれた。でも皮肉なことに、その中にあって岩谷さんのお家だけがお父様の病をきっかけに没落していく。神戸女学院での美しい生活と、現実のギャップは苦しかったはずです」

 

岩谷時子はそこで諦めなかった。

 

「岩谷さんは卒業後4年ほど、就職もせず結婚もせず、宝塚の『歌劇』などに投稿を続けて浪人生活を送りますが、その時間には、読書をはじめとする膨大なインプットがありました。そしてついに宝塚出版部から編集部員として誘われますが、そこで運命が変わりました。当時の宝塚の生徒さんたちは、必ずしも裕福な家庭のお嬢さんばかりではなくて、たとえばコーちゃん(越路吹雪の愛称)と同期の音羽信子さんも、家庭に事情があった苦労人で、家族を養ったり、何かを背負っている人も多かった。戦争が激しくなればなるほど、お嬢様でお稽古事の延長みたいな感じでやっていた人たちは、もう続けられないと故郷に帰っていく。それでも舞台の夢が捨てられない人たちだけが残っていったのです。実際、戦争で、450人いたジェンヌたちが三分の一くらいになっちゃうんです。その中で残ったのが淡島千景さんや久慈あさみさんであり春日野八千代さん。コーちゃんもやめそうになるんですけれど、なんとか留まりました。岩谷さんもしかりです。そんな若い女性たちが、宝塚には羽根を寄せ合っていた。ひとりぼっちでは越えられないものが、一緒だったから夢を捨てずに越えられたんですね。越路さんは結局岩谷さんの実家にもう一人の子どものように身を寄せて、2人は戦争を経てお互いに運命共同体となっていったんです」

 

(KEY WORD 2に続く)

 

村岡恵理 プロフィール
1967年生まれ。成城大学文芸学部卒業。祖母・村岡花子の著作物、蔵書、資料を翻訳家の姉・村岡美枝とともに研究。その集大成として著した『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)は、連続テレビ小説『花子とアン』(NHK)でドラマ化もされ、親しまれている。また、『赤毛のアン』の著者であるL.M.モンゴメリの子孫やプリンス・エドワード島州政府と交流を続け、日本とカナダの友好関係促進につとめる。その他の著書は、『村岡花子の世界 赤毛のアンとともに生きて』(河出書房新社)『「赤毛のアン」と花子 翻訳家・村岡花子の物語』(学研マーケティング)アンを抱きしめて(絵/わたせせいぞう・NHK出版)など。

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ラストダンスは私に

ラストダンスは私に岩谷時子物語

村岡恵理(むらおかえり)

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