『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』著者インタビュー村岡恵理【KEY WORD 2】二足のわらじ
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2019/08/30

「君といつまでも」「男の子 女の子」などの大ヒット作詞家として、また越路吹雪の生涯のマネージャーとして、昭和を駆け抜けた異才の人、岩谷時子。
その生涯を描く渾身のノンフィクションを発表した著者の村岡恵理さんに、『宝塚歌劇』『2足のわらじ』『加山雄三と坂東玉三郎』3つのキーワードで、本にまつわるさまざまなエピソードを伺った。

 

写真提供/岩谷時子音楽文化振興財団

 

戦争が終わると、ようやく越路吹雪はトップとして花開きます。

 

「戦中は、宝塚といえども軍服物をやらざるをえなくて、越路さんも、やっといい役が付くようになった時期に、いがぐり坊主に軍服姿で舞台に立っていた。それが戦後、急にアメリカ志向に路線変更され、越路さんは水を得た魚のように『ビギン・ザ・ビギン』や『セメントミキサー』でGHQにも大受けして、さらに『ブギウギ巴里』で持ち前のバタ臭さがさく裂して、ファンを魅了した。この頃の宝塚の舞台映像や音源が残っていないのは、残念です。唯一、映画『結婚行進曲』で上原謙さんが劇場に行くシーンの劇中劇で、帝劇の舞台でやっているのが、コーちゃんの『ビギン・ザ・ビギン』なんです。その頃はすでに宝塚を退団して女優になっていて、脚を見せた衣装で妖艶でしたね。越路さんは20代でここまで大人っぽい人だったんだな、と思いました」

 

岩谷時子が若くして名マネージャーと言われた理由は何なのでしょう。

 

「実は越路さん本人は、宝塚にいた頃から男役にはどこかで違和感を感じていましたし、和物の女役の仕度をしたりすると、実にきれいだったそうです。そういう意味で、東宝に移籍して日本初のミュージカル『モルガンお雪』一作で“性転換”に成功したのは、本当に運がよかった。宝塚の男役からの転身では、ついていくファンの皆さんが、スターへの愛は変わらないけれど、心のどこかで男役でなくなって残念、と感じてしまう例がないわけではありません。今でも宝塚から巣立つ人たちが新たな自己プロデュースをすることは、たやすいわけではない。岩谷さんのようなブレーンは、みんな欲しいかもしれませんね。

 

その後東宝での越路さんは、ちょっと足踏みする時期もあって、一つ一つの出し物はチケットも売れるけど、あれ、成長していない。演出の菊田一夫さんとも合わないことが明白になっていきます」

 

東宝で伸び悩む越路吹雪さん……マネージャー岩谷時子の正念場ですね。

 

「岩谷さんは宝塚でも東宝でも、立場は一社員でしたが、自社公演以外の舞台もすごい数を見ていらした。新劇、俳優座、三島由紀夫さんが関わっていたもの、ストレートプレイを主にやっていた黎明期の劇団四季など、常に演劇界にアンテナを張っていた。映画も然りです。ご自身は海外に行ったこともなくても、視野が広くて、これを日本でやる時はコーちゃんを出したいとか、時代はこうなっていっているのに、おかしいんじゃないか、とか、マネージャーとしての方向性と視野が確かでした。

 

その根本は愛ですよね。その人の魅力がより生かされるように、より成長できるように、生涯見守る。今でも宝塚のファンの方って、下級生の頃から応援を始めて、どんどんその方が成長してトップになれるよう退団するまで応援して、変わらない愛情がありますよね。岩谷さんの越路さんへの愛も、根本的にはそこに通じるのあなと思います」

 

マネージャーと作詞家という2足のわらじを履き続けた理由は?

 

「越路さんは、放っておくだけでは、やはりあんなに歌手として花開かなかったんじゃないかと思うんです。岩谷さんの的確なサジェスチョンと人脈があってこそ、日生劇場、浅利慶太さんとの出会いや仕事につながったような気がします。菊田一夫のもとにずっといてはいけない、浅利慶太こそが今の越路を生かせる演出家だ、という嗅覚。

 

同時に岩谷さんは、越路さんと出会う前から、何かで自分自身の世界を持ちたい、というのがおありになった。ずっと影の存在で終わる人ではなかった。越路さんという最愛の、すべてを捧げたい対象は絶対でしたが、それだけでは終わらない人でした。

 

それがちょうど日本のポップスの幕開けと重なって、東宝の社員でいながら訳詞を頼まれるようになり、それがいいトレーニングになり、作詞家岩谷時子が誕生するきっかけになるわけです。演歌など、大人中心だった歌謡界がウエスタンカーニバルをきっかけに若者が牽引する歌謡界の流れが生まれた。越路さんとは直接かかわりがないキャリアが花開いていく。

 

岩谷時子音楽文化振興財団の理事・草野浩二さんによれば「作詞ということであれば、どんなに急な仕事でも、岩谷さんは断らなかった」と。それは、歌手のレコーディング曲に限らず、CM曲とか、ドラマの挿入歌のように、その時限りで残らない「消えもん」と業界用語で言われるようなものであっても、「いいわよ」と引き受けていたそうです。まるで『夕鶴』ですよね。当時の岩谷さんの日記を見ると、身体はガタガタだし、睡眠時間は取れない、それでも明け方まで歯を食いしばって歌詞を作っているんです。周囲はといえば、こちらも売れっ子たち、たとえばいずみたくさん、中村八大さん、永六輔さん、同時代の作詞家作曲家たちは、誰もが尋常じゃない仕事の仕方で、ひと晩で十曲書いたとかもザラ。その人たちの中で紅一点の岩谷さんも、負けじとお仕事されていた。

 

おそらく貧乏で親戚に頼らなければならなかった娘時代が、岩谷さんにとっては本当に屈辱的だったのだと思います。誰かに依存すれば、自由も奪われると知っていて、その強迫観念は生涯消えなかったのでは。

 

そして何より、産み出した曲がヒットする喜びには、麻薬のような魅力があったのかもしれません。業界全体がすべてそのペースでさまざまな記録を塗り替えていくなかで、遅れをとるわけにはいかなかったでしょうね。沸きたって、燃えていた時代ですよね」

 

(KEY WORD 3に続く)

 

村岡恵理 プロフィール
1967年生まれ。成城大学文芸学部卒業。祖母・村岡花子の著作物、蔵書、資料を翻訳家の姉・村岡美枝とともに研究。その集大成として著した『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)は、連続テレビ小説『花子とアン』(NHK)でドラマ化もされ、親しまれている。また、『赤毛のアン』の著者であるL.M.モンゴメリの子孫やプリンス・エドワード島州政府と交流を続け、日本とカナダの友好関係促進につとめる。その他の著書は、『村岡花子の世界 赤毛のアンとともに生きて』(河出書房新社)『「赤毛のアン」と花子 翻訳家・村岡花子の物語』(学研マーケティング)アンを抱きしめて(絵/わたせせいぞう・NHK出版)など。

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ラストダンスは私に

ラストダンスは私に岩谷時子物語

村岡恵理(むらおかえり)

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