不自由と安定、自由と不安定 ―自撮り/プリクラ/コスプレは現代の不確定性が生んだ文化である
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ryomiyagi

2019/12/25

2000年に世界初のカメラ付きケータイ電話が発売されて以降、「わたし」を撮る、<自撮り/セルフィー>は日本の、そして世界の常識になりつつあります。しかしこの「わたしがたり」は現代特有のものであるかというと、そのルーツは15世紀半ばの西洋における<自画像/セルフポートレイト>にさかのぼります。自撮りとは、そして自画像とは何なのか? 約600年の自画像の歴史をふりかえり、21世紀の「セルフィー時代」を生きる「わたし」たちに迫ります。

 

※本稿は、森村泰昌『自画像のゆくえ』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

 

森村泰昌《Mのセルフポートレイト No.56/B(あるいはマリリン・モンローとしての私)》1995年

 

■“変身願望”のいまとむかし

 

ところで近年の若いひとのよそおいを見ていると、“いま”という時代は、自由というものが手軽に手にはいる時代なんだなあと、考えさせられることがある。

 

たとえば服であるが、ずいぶん安価で買えるようになった。しかも種類も豊富にとりそろえられている。若いひとたちが高価な服をたくさん買うことは(通常は)むつかしい。しかし低価格であれば、なんども買いかえることができる。

 

新しい服を着ることでカジュアルなコスプレを楽しみながら、自分自身をたえず更新していける。中学生の制服から逃れられなくなるというような不自由さは希薄であろう。

 

私はかつて“女優シリーズ”という一連の作品を手がけていた時期があった。映画女優に私自身が扮して撮影するというセルフポートレイトの試みである。

 

このとき当然、各種のメイク用品が必要となってくる。ガラリと「わたし」を変身させるために、顔に厚塗り化粧ができるファンデーションなどが必要となるのだが、それらは演劇用の化粧品をあつかう専門店にいかないと買いそろえることができなかった(図10・2)。

 

ところがたしか、色黒メイクとハデな服で街を歩く“ガングロ”が流行りだしたころからだと思うが、演劇用ではなく町歩き用で、しかも厚化粧向きのメイク用品が、ふつうの化粧品店でいくらでも購入できるようになった。

 

舞台で演技する役者でなくても、自由に自分自身を変身させるノウハウが、ちゃんと街中の店で準備されることになったわけである。

 

私が女優シリーズを手がけていた1995年前後は、つけマツゲなどというものも、演劇の専門店にいかないと入手できなかった。

 

一点が1500円とか2000円で、使い捨てのメイク用品としては、それなりの値段であった。ところがいまでは、つけマツゲなど、100円ショップで子どもでも手軽に買える時代なのである。

 

私の女優シリーズでは、ロングブーツが必要となる場面が何度もあったが、つけマツゲ同様、当時それはふつうの靴屋さんには置いていなかった。厚底ブーツの時代が、そのすこしあとでやってくるのだが、当時はさほど流行しておらず、さてどこにいけば手にはいるのだろうかと、あちこちをさがしまわった。Google検索はまだ存在していなかった。

 

結果やっと各種のロングブーツを置く店にいきあたった。SMショップだった。そういう特殊な店でしか見つけられなかったヒールの高いロングブーツも、しかしいまでは表通りのショップやネットショッピングで、簡単に手にはいる(図10・3)。

 

森村泰昌《セルフポートレイト・女優/バルドーとしての私》1996年

 

以上、思い出めいたいくつかのエピソードを話したのは、けっしてむかしの苦労を披瀝したいからではない。そうではなく、二十年ほどまえまでは困難だった変身願望の実現が、いまではいとも簡単に可能となる環境がととのい、おおくの人びとが、プリクラからはじまったコスプレや自撮りを手軽に楽しめる時代になったという現状を、私なりに再確認したかっただけである。

 

自画像の世界には、どこまでも大上段にふりかぶって物申すというようなところがある。それにくらべ、自撮りの世界は、手軽でカジュアルな楽しみとして、世の中の常識となりつつあるようである。

 

■いまを生きる知恵

 

むろん、手軽で、カジュアルな、楽しい遊びだからといって、自撮り文化が軽薄だと断じてしまうのは、あまりに短絡的であろう。そのことを鳥原氏も、『写真のなかの「わたし」』の最後で語っている。

 

一方で現実といえば、ことに若い世代にとっては、安定した繋がりを得にくい社会となっています。一九九〇年代の初めまでは、学校を卒業したのち、企業に正社員として勤めて、定年までそこで働き続ける。あるいはどこかで結婚して家庭を築き、伴侶と添い遂げるというライフコースが一般的と見なされてきた。そこに落ち着くことで、多少の窮屈さはあっても、安定を求めやすかった。

 

1990年代はじめなら、まだかろうじて日本の経済成長がつづいていた。しかしやがてバブルが崩壊し、世の中のありかたがガラリとかわる。世界は不動ではなく意外にもろいという事実が、いまさらながらではあるが、あらわになる。

 

国際政治や経済状況、そして災害によっても、世界は容易にくずれ流動化する。今日の株価が順調であっても、明日は大暴落するかもしれないし、いまは安全なくらしができていたとしても、明日は地震やテロにみまわれるかもしれない。

 

現代という時代には、表面上の楽しさや利便性とはうらはらに、底流には不安定な不確定性がいつも流れている。

 

鳥原氏の本からさらにつづける。

 

しかし現在の私たちは、この流動化した社会のなかで、それぞれが著名的な他者の顔色を探りながら安全な場所を探さなければならない。ことに男性にくらべて社会的に比較的弱い立場に置かれた若い女性は、社会で働くのも結婚生活にも、大きなハードルがいくつも待っている。それは思春期のころから意識せざるをえないことなのでしょう。

 

ポートレイト写真とは、本来的に写された人物のアイデンティティのあり方、つまり自分は何者かということと深く関わるものです。しかし流動化した社会の中では、人々のアイデンティティもまた短期的に変わっていかざるを得ないし、それにつれて望ましいイメージも違ってくるはずです。(中略)自撮りもプリクラもコスプレ写真も、これらはとても遊戯的なものに見えますが、それらの写真には、先の読めない時代を必死で生きていこうとする切実さが込められているのです。

 

いまの時代を生きる若い世代に鳥原氏はエールを送り、この青少年向けに書かれた本はおわっている。

 

先読みの可能な時代であり社会であれば、私たちは自分なりのビジョンを持ち、そのビジョンの実現にむけてがんばりもできよう。

 

しかし時代の先行きが不透明なときは、よくわからない未来のことなど、とりあえずは保留にして、まずはいまこのときのなかに楽しみを見つけたい。このいまを生きることにフィットする私を、とりあえずの「わたし」として感じとりたい。

 

一ヵ月先のことはわからない。社会状況や世の中の価値観などというものに普遍性などはなく、すぐにちがうものになっていくというのであれば、あらたな状況になればなったらで、その状況下で生きのびるための「わたし」へと、さらに自分自身をコスプレしていけばよい。

 

年齢をかさねたひとであれば、過去の記憶というよりどころも見いだせる。だが若いひとにはそんな過去の蓄積はない。

 

自撮りもプリクラもコスプレも、さきの読めない時代のなかで、せめて、いまだけでも充実して生きていこうとする、若い人びとによる時間感覚の切実な選択の結果なのかもしれない。

 

軽いフットワークで流行の波にのり、「わたし」を時代の変化にあわせて変身させていくことが、けっして軽はずみなふるまいではなく、時代を生きぬくための知恵なのだと、『写真のなかの「わたし」』の著者は結論づけている。

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自画像のゆくえ

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森村泰昌(もりむら・やすまさ)

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