「愛しているのは音楽と私のどっちなの?」天才ピアニスト同士の恋の結末は
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ryomiyagi

2020/02/26

 

令和2年を迎えた今年、2020年。日本中が東京オリンピックで沸き立つなか、ワルシャワではピアノ界の大イベント・5年に一度の「ショパン・コンクール」が開催されます。日本人にとってのピアノスターであるマルタ・アルゲリッチと マウリツィオ・ポリーニという2人の物語を通して、20世紀後半〜現在までの日本と世界のクラシック音楽史を辿ります。

 

※本稿は、本間ひろむ『アルゲリッチとポリーニ』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

 

■アルゲリッチ、ショパン・コンクールを制す

 

1960年、18歳の青年マウリツィオ・ポリーニが完全なる技巧、それも類い稀なる完璧な演奏で優勝して見せ、ショパン・コンクールに高いハードルを掲げた。1965年は彼を超えるピアニストが現れるのか、と誰もが訝しがった。

 

1965年のショパン・コンクールにエントリーしたマルタ・アルゲリッチの楽屋にはしばしば医者が訪れた。理由は極度の緊張、不眠症、「ひどい気分なの。弾きたくないわ」と。

 

しかし、連日カラスのような黒い衣装を着てステージに上がると、アルゲリッチは情熱に満ち、かつ繊細な演奏を披露して観客を熱狂させた。

 

当時のコンクールのライヴ録音を聴いてみると、まずそのダイナミックな楽音に驚く。まるで男性が弾いているのかと思うほどに。荒削りなところも男勝り。彼女の演奏はどこまでも情熱的でありどんどん聴くものに迫ってくる。そう思った途端、ひどく繊細で美しい音色を響かせる。天才が目の前にいる、とワルシャワの聴衆は思ったに違いない。

 

そしてアルゲリッチは優勝した。マズルカ賞も得た。数年前までろくにマズルカなんてさらったこともないくせに──。

 

「もっと上手く弾けたのに」

 

という名言を残して。

 

■ピアノが結び、ピアノが裂いた仲

 

ほどなく、アルゲリッチはEMIのアビーロード・スタジオでショパン作品集のレコーディングに入った。暗い顔つきでスタジオに入り、ブラックコーヒーをガブガブ飲み、さらっとショパンの《英雄ポロネーズ》を弾き始めた。EMIのディレクターのスヴィ・ラジ・グラッブは椅子から転げ落ち、「ジーザス!」と叫んだ。

 

《ピアノ・ソナタ第3番》《3つのマズルカ》《スケルツォ第3番》《夜想曲第4番》《ポロネーズ第6番・英雄》といったショパンの小品が並ぶこの録音は、アルゲリッチとドイツ・グラモフォンとの専属契約があったため、日の目を見るのは2000年まで待たなければいけない。そのために『幻のショパン・レコーディング1965』(The Legendary 1965 Recording)というタイトルになった。

 

2年後の1967年、アルゲリッチはミュンヘンのプレーナーザールでほぼ同じ曲をドイツ・グラモフォンに録音した。ま、契約があるのだから仕方がない(アルゲリッチにとっていつも契約が足かせになる)。

 

この2枚のアルバムを聴き比べてみると、とても興味深い。

 

《ポロネーズ第6番・英雄》は、1965年盤(EMI)が6分35秒、67年盤(DG)が6分16秒、《3つのマズルカ》は1965年盤(EMI)がそれぞれ3分46秒、2分49秒、2分58秒、67年盤(DG)が3分16秒、2分15秒、2分42秒。

 

1967年盤(DG)は1965年盤(EMI)よりどの曲もテンポが速いのだ。ご自身の耳で聴き比べてみるのも面白いと思う。

 

ショパン・コンクール優勝を受けて演奏会のオファーも増えた。この頃からアルゲリッチは、指揮者のシャルル・デュトワの愛車(ポルシェ)の助手席に乗って、演奏会のある街へ行くようになった。様々な意味でコンディションの悪い時は、その夜の演奏会をキャンセルする旨をデュトワが先方に伝えてくれた。ヨーロッパ中の街を2人はポルシェで走り回ったのだ。

 

1966年に入ると、アルゲリッチはニューヨークでのデビュー・リサイタルを成功させた。

 

そして、ロンドンでも演奏会を開いた。ロンドンには親友フー・ツォンがいた。フー・ツォンは、同世代のピアニストが多くすむメゾンに住んでいた。ネルソン・フレイレ、スティーヴン・コヴァセヴィチ(1940年、サン・ペドロ生まれ)、ジュリアス・カッチェン(1926年、ロングブランチ生まれ)、ラファエル・オロスコといった面々だ。

 

彼らはお互いの演奏会に行き、助け合って暮らしていた。

 

そんな彼らを見てアルゲリッチもロンドンに住むことにした──。

 

そして、アルゲリッチはベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第4番》を弾くスティーヴン・コヴァセヴィチに恋をした。

 

「しかしこのような恋愛では、愛しているのは音楽なのか演奏者なのか分からずに苦しむことになる」と語るのは、この2人の娘であるステファニー・アルゲリッチ。

 

思えばアルゲリッチがシャルル・デュトワと恋に落ちたのも、デュトワがたまたまこれからフリードリヒ・グルダとモーツァルトの《ピアノ協奏曲第20番》を共演するというところに出くわし、そのままデュトワの愛車に乗って演奏会の会場へ行った夜のこと。

 

音楽の魔力の使い手は時にその魔力に翻弄されるものらしい──。

 

話をコヴァセヴィチに戻す。

 

アルゲリッチとコヴァセヴィチは多くの時間を一緒に過ごした。音楽の話、人生の話、話すことは山ほどあった。そして一緒にホロヴィッツのレコードを聴いた(コヴァセヴィチはホロヴィッツのレッスンを受けたことがあるのだ!)。

 

しかし、ピアニストとしてはまるで違っていた。

 

コヴァセヴィチ(当初はフリートウッド・マックのメンバーにいそうなスティーヴン・ビショップと名乗るアメリカ人)はまるでイギリス人のように一日8時間はピアノを弾く。

 

アルゲリッチは昼まで寝ていて夜もほとんどピアノに向かわない。こんな2人がうまく行く訳がない。昼まで寝ている人の方が魅力的なピアノを弾くとしたら、尚更だ。

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