ダイエー救済・リーグ再編の立役者は、3年でプロ野球界を去った大学教授だった
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BW_machida

2020/10/15

21世紀の新たなる覇者・ソフトバンク。その「強さの原動力」として注目されたのが「3軍育ち」…育成選手としてプロ入りした、たたき上げのプレーヤーたちだ。この「3軍制」確立の立役者が、現・江戸川大学教授/元プロ野球選手の小林至。東大出身者として史上3人目のプロ入りを果たすも、3年で引退。その後アメリカに渡りMBAを取得、帰国後は大学で教鞭を執りながら、スポーツライターとしても活躍の場を広げていた小林。彼がソフトバンクの球団取締役に就任するまでに、何があったのか?

 

 

本稿は、喜瀬雅則『ホークス3軍はなぜ成功したのか?』(光文社新書)の一部を再編集したものです。


混迷を極めた球界再編

2005年(平成17年)。戦前の昭和時代から脈々と続くプロ野球の歴史において、この年は「再出発」とも位置づけられる、一大転換期だったともいえる。

 

大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併構想を足掛かりに、12球団から10球団への「球界再編構想」が持ち上がったのは、その前年、2004年(平成16年)のことだった。

 

オーナー側は近鉄とオリックス、さらにもう1組の球団合併、それに伴う「1リーグ・10球団制」への球界再編計画を推し進めようとした。

 

巨人以外の11球団は、すべて赤字。
それが、当時のプロ野球界の「定説」でもあった。

 

12球団から10球団への再編は、市場規模に応じての経営戦略であり、そうすることで各球団の赤字幅が縮小し、さらには黒字化への道が開け、適正な球団経営が可能になる。

 

オーナー側は、その「経営戦略上の理由」を主張し続けた。
しかし、12球団制の存続で一致団結した選手会の反対姿勢も強硬だった。

 

球団合併は、経営上の判断と解釈され、労働界においては、こうした経営事項を議論のテーブルに載せることは、団体交渉ではなじまないものとされている。ただ、再編問題が長期化するにつれて、経営者サイドが貫こうとする「理」が、かえってその冷徹さを強調してしまうという、何とも皮肉な流れを生んでいったのも、また確かだった。

 

オーナー対選手。その対立構図は、経営者対労働者、会社対組合という、ビジネス界にも投影しやすい事象である。さらに強者=オーナー、弱者=選手という勧善懲悪のドラマのごとく、話が展開していくことで、徐々に「選手側」を後押しする世間の風も強くなっていく。

 

シーズン中にも断続的に労使交渉が繰り返されたが、妥協点が見出せずに決裂。選手会側は、9月18、19の両日にストライキを強行した。

 

シーズン中に初めて、選手たちが、自分たちの意思で、試合をボイコットしたのだ。こうした未曽有の混迷が続く中、ダイエーグループの経営が完全に行き詰まっていた。

 

ダイエーの行き詰まり

昭和の高度経済成長期に、ダイエーは驚異的な急成長を果たした。

 

客との一対一の対面販売だった小売りの形態が、大量生産、大量消費へと時代が移り変わっていく中で、大型店舗で客が自由に商品を選び、まとめて支払いを行う、アメリカ型の「スーパーマーケット」の業態が、時流にマッチしたのだ。

 

それは「流通革命」と呼ばれ、ダイエーはそのフロントランナーとなった。

 

出店した土地を担保にして調達した新たな資金を元に、次の新規出店を展開していくことで、一気に全国へとその勢力を伸ばしていった。

 

それは、日本経済が右肩上がりで成長を続けることを信じていた昭和の「土地神話」、つまり、地価が下がらないという前提での「拡大戦略」だった。

 

日経平均株価が、いまだに破られない終値の最高水準、3万8915円87銭を記録したのは、1989年(平成元年)12月29日の大納会のこと。しかし、その平均株価が2万円を割ったのは、そのわずか2年3か月後の1992年(平成4年)3月。

 

バブル経済が崩壊することで地価の大幅下落が起こると、それがダイエーの持つ資産価値の急落へとつながった。
まさしく、負のスパイラルに入り込んだ。
そこに、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災が、グループの苦境にさらに拍車をかける。当時の基幹店があった神戸・三宮が壊滅的な被害を受けたのだ。

 

経営難に陥ったダイエーは、グループ企業の解体、売却を余儀なくされることになる。
女子バレーボール部と陸上部は、グループの経営悪化に伴い、1998年(平成10年)に、そろって休部が発表されていた。
こうした泥沼での経営の中で、そもそもが「赤字体質」といわれたプロ野球球団の存在がクローズアップされるのは、まさしく、必然の流れだった。

 

too big to fail

ダイエーは「大き過ぎて潰せない」と言われた。
2001年(平成13年)には、グループ全体の有利子負債は2兆円を超えた。

 

これだけの経営規模を誇る大企業が仮に経営破綻すれば、日本経済全体に与える影響はあまりにも大き過ぎる。
そこで当時、ダイエー再建のために作られたとまで言われたのが「産業再生機構」だった。

 

同機構は、5年間の時限的な組織として2003年(平成15年)に発足した。
経営不振に陥った企業の貸付債権を同機構が銀行から買い取り、公的な管理下に置く形で企業の再建を支援するために、国も出資し、官民共同で作られた株式会社だ。
ダイエー本社は、産業再生機構を使わない、自力での再建を模索し続けていた。

 

しかし、政府の方針は、問題の先送りを認めず、あくまで産業再生機構の活用による経営再建にあたるべきというものだった。
こうなると、ダイエー再建は「国策」ともいえるマターだ。

 

その「核心の情報」を、政府筋からいち早く手にしていたオーナー側は、こうした経済の動きと連動させたシナリオを描いていたとされている。まず、ダイエーが“機構入り”をする前にグループから球団を切り離し、球界としてダイエー球団を救済する。そして、オリックスと近鉄に続き、ダイエーともう1球団との合併球団を作ることで「10球団・1リーグ制」への再編を行うというものだ。

 

つまり、ダイエー球団の救済と、リーグ再編の一石二鳥を図ったわけだ。
ダイエーとの合併構想で、最有力候補と目されたのはロッテだった。

 

ロッテグループの経済拠点でもある韓国と地理的にも近く、人的にも経済的にも交流が深い福岡を本拠にするダイエーとの合併には、グループの経営面としても、大きなメリットがあるとみられていた。

 

実現へ向け、懸命に調整が図られた「ダイエーとロッテ」の球団合併だったが、親会社のビジネスが複雑に絡んでくると、野球界だけの事情だけでは簡単に事が進まない。ダイエーが「産業再生機構」による経営再建を渋り、球団の切り離しの動きが遅れたことも響いた。

 

大山鳴動して……の結末は「2リーグ・12球団制の存続」だった。
オリックスと近鉄の球団合併は当初のプラン通りに進められた中、近鉄不在の「穴」には宮城・仙台市を本拠地とする楽天球団の新規参入が決まった。

 

さらに、“機構入り”することで親会社が“消滅”したダイエー球団は、ソフトバンクへ売却・譲渡された。孫が小林に白羽の矢を立てたのは、こうした一連のタイミングでのことだった。

 

球団経営という新規ビジネスに挑むソフトバンクからの「ヘッドハンティング」だった。

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