銅像から知る「陸奥宗光」 近代日本外交の基礎を築いたその一生
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2020/10/20

外務省研修所の玄関を入ると、ホールの手前左に一つ、奥正面にもう一つ、銅像が安置されている。一人は日本人、もう一人は米国人。彼らは、近代日本外交を語る上で、欠かすことのできない貢献をなした人物である。今回はそのうちの一人、陸奥宗光について、彼がなぜ銅像となって今も外務省の地に讃えられているのか、その由来をご紹介します。

本稿は、片山和之『歴史秘話 外務省研修所 〜知られざる歩みと実態〜』(光文社新書)の一部を再編集したものです

 

陸奥宗光 ─ 近代日本外交の基礎を築く

まず、日本人の方は、陸奥宗光である。陸奥は1844年(天保15年)、和歌山藩士の家に生まれ、明治維新とともに外国事務局(外務省の前身)御用掛に登用される。駐米公使、農商務大臣を経て、1892年8月8日、第2次伊藤博文内閣の下で外務大臣に就任し、1896年5月30日まで務めた。

 

明治の日本外交にあって、日本を欧米との関係で不平等条約改正を通じ「対等」にすべく尽力した第一の貢献者といっても過言ではあるまい。

 

1894年の日英通商航海条約締結で領事裁判権の廃止(「治外法権」の撤廃)に成功する(発効は1899年)。その後、同年中に米、伊、翌年に露、96年に独、仏、97年に墺との間で同様の新条約が結ばれる。

 

日清戦争では全権大使として下関講和条約に調印、後に『蹇蹇録』を著し日清戦争の開戦から下関条約、その後の三国干渉の舞台裏を赤裸々に綴った。同書はいわば、日清戦争を外交史の観点から記したリアリズムの歴史書である。表題は中国の「易経」から取られ、君主に忠誠を尽くすということを意味する。

 

陸奥は蹇蹇録の冒頭に、その執筆目的を次のように語っている。すなわち、地形に例えれば、公式記録は実測図面のように山川の高低や浅深の尺度を表すのみであるが、もし、山容水態の実態を極めようとすると写生絵画が必要となる。蹇蹇録を残したのも、まさに、日清戦争当時の外交の写生絵画を描いておきたかったからであり、公式記録とこの記録を併せて理解することによって当時の実相を把握してほしかったと述べている。

 

さらに、本書は、領事裁判権の廃止を目的とした不平等条約の解消、すなわち英国との条約改正についても記述している。1894年7月16日に、英国と改正された条約に調印し(ちなみに、関税自主権の回復は1911年)、同月25日には豊島沖で日清両海軍が砲火を交え日清戦争が開始された。

 

蹇蹇録は、当時の外交記録に基づいて執筆されていたため、暫く一般に公開されず、1929年に岩波書店から出版されたのが最初であった。明治の近代日本外交の基礎を築いた人物による文字通り一級の外交史である。彼は、96年に外相を辞任、その翌年に享年53で没する。

 

一度は撤去されたものの…

 

陸奥像については、現在霞が関の外務本省敷地内に戦後作られた大きな新立像が設置されている。他方、戦前の東京は銅像の町であり、あちこちに設置されていた。外務省旧本館正面玄関前にも陸奥の旧像がシンボル的存在として置かれてあったという。

 

この像は、1907年に陸奥の十周忌を記念して第1次西園寺公望内閣の原敬内務大臣、林董外務大臣等が発起人となり建立された。

 

趣意書には彼らが名前を連ねている他、賛同者として伊藤博文、山県有朋、西園寺公望、松方正義、井上馨、板垣退助、渋沢栄一の名前が確認できる。制作者は藤田文蔵東京美術学校(現在の東京芸大)彫刻科教授であった。

 

10月24日に行われた除幕式の様子を原は次のように日記に記している。

 

日本の外交は故伯(注:陸奥宗光)により一面目を改めたる次第にて、各国と初めて対等の位地に立つ事を得たるも此時より始まる訳なれば、之を外務省構内に立つるは決して不当にあらざるべく、外務省も亦将来永く之を記念とするに足るべし。各国大使公使を始め内外来賓五百余名を超えたり。

 

この銅像は、戦前の外務省風景の象徴的存在でもあったが、残念ながら、第2次大戦が激しくなった1943年に金属供出の一環として撤去されてしまった。しかし、将来の再建を期した関係者は、服装部分については将来復元も困難ではないが、頭部についてはこれを残してその面影を後世に伝える必要があるとの判断から、寸断して供出せずに保管したのである。戦争末期には外務省の他の重要な物品とともに栃木県に疎開させられたが、戦後、再び外務省に戻り、大塚(茗荷谷)の研修所に安置されることとなった。

 

現在、外務本省構内の北側庭園一角にある陸奥宗光の銅像は、これとは別に戦後造られ、1966年12月15日に除幕式が行われたものである。銅像の再建を望む関係者の意向を受け、陸奥の没後70周年記念会(名誉会長吉田茂、会長石坂泰三)が組織され、その主要事業として、銅像の再建を図ることとなり、山本豊市東京芸術大学教授に制作を依頼したものである。

 

戦後の銅像除幕式には、佐藤栄作総理大臣、三木武夫外務大臣、横田正俊最高裁長官等約200名が列席し、遺族代表として孫にあたる陸奥イアン陽之助も出席した。

 

筆者は外務省海外広報課首席事務官をしていた90年代中頃、インタナショナル映画社社長を務めていた陽之助氏と懇談する機会があった。陸奥宗光の長男広吉は、英国ケンブリッジ留学中にエセル・パッシグハムと恋に落ち、後に結婚する。彼もまた外交官であった。その子供が陽之助である。祖父である宗光と父広吉、そして英国人の母親の血を引き継いだ容貌が深く印象に残っている。

 

なお、余談になるが陸奥と並んで明治の日本外交に大きな足跡を残した小村寿太郎外務大臣の銅像は外務省にはないが、戦前(1938年)、日本が租借していた大連にあった「小村公園」に設置されていた。これは、朝倉文夫が彫塑し、碑文は当時の満鉄総裁であった松岡洋右が書いている。現在の朝倉彫塑館(日暮里)にも4メートル程の小村像が大隈重信像と同じ部屋に鎮座している。また、小村の郷里である宮崎県日南市にも別の銅像が建てられている。

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