人生に疲れたなと思ったら手に取ってみて|伊与原新さん『八月の銀の雪』
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BW_machida

2020/11/28

 

’18年、科学知識をベースにした滋味深い短編小説集『月まで三キロ』が世の本読みたちに大絶賛された伊与原新さん。新作は「読んでくださる方の世界が広がるような物語にしたいと思って書いた」と語ります。心の深いところがじんわりと温かくなる、豊饒なエンタメ短編集です。

 

科学の思考が、人生に行き詰まった人の視界を広げてくれることもあると思う

 

八月の銀の雪
新潮社

 

 横溝正史ミステリ大賞を受賞してデビューした伊与原新さんは、地球惑星物理学の研究者として国立大学に勤務していた経験もある、異色の経歴を持つ気鋭の作家です。デビュー以来、その豊富な科学知識をフル活用したミステリー作品を多数発表し、多くの読者を楽しませてきました。'18年、伊与原さんは科学的知識を取り入れたエンタメ短編集『月まで三キロ』を発表します。この作品の素晴らしさが口伝で広まり、あっという間にさらに多くの読者を獲得し、好評を博しました。

 

 新作『八月の銀の雪』も科学的知見が生きた短編を5本収録した作品集です。執筆のきっかけは━━。

 

「心に痛みを抱えた人たちが偶然科学に触れ、見える世界がわずかに変わったり視野が少し広がったりして、人生に小さな光を取り戻していく物語を書きたいと思っていました。前作『月まで三キロ』がそういう感じの作品でしたが、期待していたよりも反響がよく、手ごたえがあったということもあります」

 

 伊与原さんは静かに、言葉を選びながら話し始めました。

 

「デビュー以来、科学的なトリックやどんでん返しのあるミステリー小説を中心に書いていました。ところが数年前、当時の担当編集者に“そういう作品を書くのに疲れているように見える。肩の力を抜いて書いてみてはどうか”と提案されまして……。

 

 それまでは、科学的なモノの見方が人にどういう影響を与えるのかといったことを念頭において書いていたわけではありませんでした。それで、科学者が見ている世界を普通の人がのぞき見たときにどういう化学変化が起こるのかを書いてみよう、と思ったんです。それが前作『月まで三キロ』で、今回はその世界観をさらに深め、科学を通した恋愛話から科学の功罪まで描きました」

 

 “科学者が見ている世界”と聞くと難しそうですが……。

 

「いえいえ(笑)。難解な数式とか専門用語の羅列といったようなことではありません。視点の置き方が違う、という感じです。

 

 たとえば、月を見たら普通の人は“きれいだなあ”と思うかもしれません。でも、科学者は“なぜ月は同じ面を見せているのだろう”“月はどうやってできたのだろう”などと考えるわけです。つまり、成り立ちや自分たちとの関係を意識し想像する。そういった科学者の思考に触れることで、人生に行き詰まっている人の視界が広がるのでは、と。世界はまだまだ広いと少しでも感じられれば、むなしいと思うことすら不遜だと思えてくるかもしれないと考えました」

 

 登場するのは就職活動がうまくいかない大学生と地球の内核を研究するベトナム人留学生(「八月の銀の雪」)、子育てに自信が持てないシングルマザーと学術的な資料や研究に使う生物画を描く画家(「海へ還る日」)、俳優の道を諦めた男と伝書バトの本を書く元科学記者(「アルノーと檸檬」)、失恋した女性と珪藻アート作家(「玻璃を拾う」)、原発の下請け会社を辞めた男と気象研究者(「十万年の西風」)。どの作品も孤独や閉塞感、諦観などを抱えている人に一条の光が差し込み、人生が好転する瞬間を描きます。

 

「科学的な情報と、行き詰まっている人の人生をパズルのように組み合わせるのが大変でした(笑)。そのぶん、手に取ってよかったと思ってもらえる作品になったと思っています」

 

 疲弊している登場人物たちに自分自身の姿を重ね、彼らが一歩前進する姿に胸が熱くなって涙する━━。読み終えるのがもったいない、そんな素敵な小説です。

 

伊与原さんの本棚から

おすすめの1冊

旅をする木』文春文庫
星野道夫 /著

 

「アラスカの自然と動物たちを撮り続けた写真家がアラスカでの生活を描いたエッセイ。本書を読むと私たちの生活と自然の間につながりがあることがよくわかります。自分の人生が豊かになった気がするすごい本です」

 

PROFILE
いよはら・しん◎’72年、大阪府生まれ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。’10年、『お台場アイランドベイビー』で第30回横溝正史ミステリ大賞を受賞しデビュー。’19年、『月まで三キロ』で第38回新田次郎文学賞、第8回静岡書店大賞、第3回未来屋小説大賞を受賞。

 

聞き手/品川裕香
しながわ・ゆか◎フリー編集者・教育ジャーナリスト。’03年より『女性自身』の書評欄担当。著書は「若い人に贈る読書のすすめ2014」(読書推進運動協議会)の一冊に選ばれた『「働く」ために必要なこと』(筑摩書房)ほか多数。

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