ミャンマー人が握る寿司で新たに出会う心地よさ…日本でアジアを感じる場所
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BW_machida

2021/09/21

 

『アジアのある場所』光文社
下川裕治/著

 

アジアを感じる。
コロナ禍で渡航のできない歯がゆさと相まって、改めてアジア独特の個性や文化に触れながら、自らの脚で現地へと赴きたい衝動に駆られる。目的地では、人々の明るい笑顔や癒しの空間、自国に留まっていては味わえない新鮮な空気を全身で感じることができる。その逆もまた然り。時には普段全く意識することのない、物悲しさに満ちた部分も垣間見る。下川裕治さんの著作『アジアのある場所』では独自の食文化、個性あふれる人々、多面的な角度からアジアの雰囲気を感じながら、民族問題、差別意識、難民問題等の現在も根深く残る暗い側面にも触れる。

 

アジアを感じる。
読了後、読者は初めてその意味を理解するのかもしれない。

 

何気ない日常を過ごす中、著者は日本にいながらも様々な場面でアジアを感じるという。例えば気候、人物、食事、空気。
日本での激しい夕立。その情景から、著者はバンコクでの出来事を懐古する。

 

同じ状況に追い込まれてしまったタイ人が三人ほど立っていた。そこにさらにふたりが駆け込んできた。僕を含めて総勢六人。一歩も足を踏みだせず、ただスコールを見続けている。

 

著者はバンコクの旅行会社へ向かう途中にスコールに見舞われ、駅近くの店先で立ち往生する。結局、旅行会社へ時間通りにたどり着くことはできなかった。後日、先方へお詫びの連絡を入れると、全く気にする素振りがなかったという。

 

雨が約束を流してしまう。

 

毒蛇や大型ムカデに足を噛まれる危険性が高まることから、タイ人はスコールがきたら外を出歩かない。全ての状況において当てはまることではないのだろう。しかしこの何気ない一場面が、タイ独特のゆるやかな情調を読者に感じさせる。時間にうるさい、何もかもがゆとりない日本での生活と相反するタイの文化に、憧憬の念を抱く読者も多いのではないか。牧歌的で、どこか柔らかさを帯びるタイの風習。慌ただしい日常の中、彼らの人柄と雰囲気が癒しを生む。
一方、著者はタイの裏側を目撃する。日本にはかつて荒川沖にリトルバンコクという街が存在した。そこには安定した生活を求め、不法就労という立場でやって来るタイのイサーン出身者が多いという。イサーンの人々はバンコクでは田舎者として差別的な扱いを受けていた。故に彼らは日本を選んだ。彼らは徐々にリトルバンコクへと集中する。彼らは病気や怪我を負った際、経済的余裕がないので治療費を払うことができない。故に費用の請求から逃れるため、治療後に病院から逃走する人々が後を絶たない。表裏一体。不法滞在や密入国といった現実問題が、タイのゆるやかさの裏に暗い影を落とす。

 

これだけの寿司を握るっていうのに、彼らには威厳みたいなものがなにもない。寿司屋って、ちょっと怖いようなところがあるでしょ。真剣勝負っていうか。この店にはそれがないんだよ。すッと肩の力が抜けるっていうか。

 

ミャンマー出身のラカイン人達が、日本で寿司屋を開いた。彼らは日本に難民申請を行った。自国の軍事政権を嫌った彼らは、日本へ居場所を求めたのだ。しかし日本の審査は厳しく、難民として受け入れられる枠は極端に少ない。そこには政治的な思惑が介在する。ミャンマーとの関係悪化を危惧する日本政府は、当国から逃れてきた人々を難民認定することに消極的なのである。難民申請が通るまで、彼らは一定期間以上の特定活動のみが認められる例外的な立場で、しかし不安定であり不透明な立場で、日本で生活を送ることになった。彼らの日本での生活は寿司チェーン店のアルバイトから始まり、その後は独立を目指して奮闘する。多くの困難に直面しながらも、彼らの絶え間ない努力、そして彼ら独特の魅力ある雰囲気に、客は惹きつけられていく。彼らの礼儀正しさ、穏やかさに好印象を受けた日本人の客が多いという。日本は、寿司という文化に高い誇りを持つ。故に日本人は、日本の寿司屋に格式ばった印象を持つ。粗相のないよう振る舞うことに精一杯になり、落ち着いて寿司を味わうことができない。そんな日本で新たに出会う寿司。彼らの店で、彼らの握る寿司を食べる。ミャンマーの温かな雰囲気に触れることで、どこかほっこりとした気持ちになる。日本人がミャンマーに出会う瞬間だ。アジアの心地よい空間に、全身がどっぷりと浸かってしまうのだ。

 

この作品にはアジアがある。アジアを感じることで、見えてくるものがある。そんなことを教えてくれる一冊である。

 

文/鈴木七海

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アジアのある場所

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下川裕治

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