〈あとがきのあとがき〉フォースター『モーリス』訳者、加賀山卓朗さんに聞く
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男の社会、女の社会

 

ーーモーリスは、同性にしか愛情を抱けないのは病気なんじゃないかと苦しみ、意を決して、あまり好きでもない隣人の医者にかかりますよね。

 

加賀山 周りの意見がすべてのような社会です。多くの人は、精神の病だと思っていたんでしょう。クライヴのように、ある日突然、同性愛を否定して女性と結婚する人もいるから、なおさら「治る」ものだと思ってしまう。それで医者に行ったわけです。

 

ーーそれは苦悩の形としては、あまりにもきつい。

 

加賀山 周りの人たちの態度や、社会制度ゆえに、仕方なくこじらせちゃったという印象があります。誰でも思ったように生きられる社会であんな風になったわけでないので、ちょっと気の毒な感じがしちゃうんですよね。

 

ーー相当苦しかったと思います。ただ、それを考慮しても、ものすごく気分屋で身勝手な言動も多い。モーリスのそういう性格をどう見ていましたか?

 

加賀山 成人したモーリスは、一応、株式の仲買人みたいなことでそこそこの成功をおさめて、社会的にはちょっと認められているんですよね。でも、一番大切なものというか、アイデンティティみたいなところでずっと悩んでいるから屈折している、きっとね。それがときどき爆発しちゃう感じかな。妹たちに手酷く当たったりして。

 

ーー妹たち、当時の女性たちは、男性ほど出会いの機会もないし、外出の自由もない。しかも、造作の良し悪しや財産の有無で値踏みされる。その上、当主である兄からしょっちゅう八つ当たりされるのはあまりにも不憫で……。

 

加賀山 なるほど、ああ、そうか。言われてみれば、わたしはモーリスに同情的だったかもしれないです。妹たちがかわいそうとかあまり考えていなかった。

 

ーー女性たちは物語の本筋からすると添え物ですが、フォースターはそんな彼女たちのことも丁寧に描いていると感じました。

 

加賀山 鋭い観察眼を持った人だから、日常的に周りの人を見ていたのでしょうね。モーリスやクライヴ同様、女性に囲まれた家庭で育ったから、女性が何を考えているのかにも相当頭を働かせていたと想像します。たしかに、クライヴの母親が言うことは、訳していてけっこう味があるなと思いました。モーリスやクライヴが言うことはだいたい想像がつくんだけど、二人の母親たちが言うことは意外でおもしろかったりした。

 

加賀山卓朗さん

 

ーーモーリスの母親の言動から、彼女の優しくて穏やかな人柄は、色々なものを飲み込んだ上に成り立っているような気もしました。

 

加賀山 そうですか? ああ、でも、この子はひょっとしたらみたいなことを匂わせる部分もあって、母親は、モーリスのセクシャリティについてもわかっていたっぽいですよね。

 

ーー彼女の言葉は、モーリスの父親についても、それが同性愛なのかははっきりわかりませんが、何がしかの秘密があったことを匂わせていますよね。

 

加賀山 すると、モーリスをはなからを相手にしなかった隣人の医者は、父親にもその気があるのを察していて、息子もかと思った可能性がありますよね。でも、そんな話はまさかありえない、認めたらパニックになってしまう。だから医者は頑なに否定したけれど、一方、モーリスの母親は、心のどこかで疑いつつも表面上は「さあ」という感じで、知らない振りを通している。

 

ーー真実を突き詰めて向き合うと、属している世界が狭い当時の女性たちは、自分を辛くするだけなのかもしれません。

 

加賀山 モーリスとクライヴの交際中、互いの母親と妹同士が仲良くなっちゃうじゃないですか。息子たちそっちのけで。あそこは、隠さなくていい関係としてコントラストを出しているだけでなく、当時の男の社会と女の社会のあり方の違いも見えてきますね。

 

ーークライヴの家族は、モーリスの家族が自分たちの事情に踏み込み過ぎないところを好むんですよね。

 

加賀山 自分たちに対して、むしろぶっきらぼうなくらいの態度を尊重するんですよ。そっちのほうがいいという感じ。

 

ーー言い換えれば、面倒になりそうなことは見ない、あるいは敢えて口に出さない。それによって、女性たちの世界の平和が保たれるという。

 

加賀山 なるほど、たしかにそうですね。男性にばかり注目していて、女性にあまり注目してなかった。それこそわたし自身に多様性の意識が全然足りていなかったようです!

 

翻訳者はいろいろ大変

 

ーー話は変わりますが、加賀山さんは会社員から翻訳者に転身なさったんですよね?

 

加賀山 はい。通信会社で光海底ケーブルを引く契約の仕事をしたりしましたが、入社10年くらいの頃、伝送路の仕事よりも、その中を通すものを扱いたいと思ったんですよね。一度、仕組みより中身の仕事をしてみたいなと。英語はその会社でも使っていたし、本は好きだったので、通信教育で翻訳をやってみたらおもしろかった。それで田口俊樹さんという師匠のところに通い始めたんです、夜学に。以来、今も関心が途切れずに続いています。

 

ーーデビュー当時はまだ30代前半ですよね。最近は、そのくらいの若い男性の翻訳者はかなり少ない。

 

加賀山 いないですよね。やっぱり商売にならないかな。たぶん何か他に仕事がないとやっていけないですね。私も翻訳学校で教える仕事があるからなんとかやっていますけど。

 

ーー翻訳者を目指す人自体が少なくなってきているのでしょうか。

 

加賀山 それが、翻訳学校に来る人は減ってないんですよ。とくに女性と年輩の男性が増えています。語学ができるので副収入を、あるいは家庭に入って仕事に復帰したいけどオンサイトはむずかしい、というケースが多いかな。でも、ほんとうに男性は少ない。ますます少なくなってきているかな。だってちょっと、生活がね……。

 

ーー仕事の蓄積ができてきて、ロングセラーのものでもあれば印税収入がそこそこの見込めた昔と比べると、今はそのあたりの事情が全然ちがう。

 

加賀山 そうそう。年収で見ると、そんなに悪くはなくてもキャッシュフローが回らなくなる。保険料をいきなり30万ひき落とされると言われても、ありません!みたいになっちゃうから。

 

ーーすごく当たった作品とかあると、それもまた次の年に……。

 

加賀山 えらいことになってしまう。消費税払ったりして。で、その年は収入低かったりしてね。そのあたりは、全然読めないのでいろいろ大変なんです。

 

ーー加賀山さんにとって、すごく当たった、これはヒットしたというのはどの作品ですか?

 

加賀山 一番多く売れたのは、ジョン・ル・カレの『ナイロビの蜂』(集英社文庫、上下巻)、もしくは、デニス・ルヘインの『ミスティック・リバー』(ハヤカワ・ミステリ文庫)かな。

 

ーー『ナイロビの蜂』って、アフリカが舞台の、どちらかと言うと社会派な作品ですよね。

 

加賀山 アフリカの製薬会社が悪いことをして、主人公がその陰謀に挑む話で映画化もされました。『ナイロビの蜂』は圧倒的に男の世界でしたね。今回訳した『モーリス』も悩める男の物語ですが。

 

ーー翻訳小説ファンの間では、加賀山さんと言ったらスパイ小説、冒険小説、ミステリーなどを思い浮かべる方も多いかと思います。

 

加賀山 そうなんですよね。もともとがそこから入ったので。

 

ーーでも実際は、幅広いジャンルを手がけている。今のものに限らず古典も。『モーリス』もそうだし、昨年出たディケンズの『オリヴァー・ツイスト』(新潮文庫)もそうだし。

 

加賀山 他にはグレアム・グリーン、ジョン・ディクスン・カーもやりました。とくにグリーンは大好きです。趣味でやるならずっとグリーンを訳していたい。

 

ーーさらにはノンフィクションも。これも昨年出たばかりですが、先述の『チャヴ』はなかなか衝撃的でした。翻訳のジャンルは意識的に広げてこられたんですか?

 

加賀山 いえ、自分からそうしようとは特に思っていないんです。ただ、『チャヴ』よりもずっと前、初めてノンフィクションを頼まれたときに、フィクションと別の名義で訳そうと決めました。殺しとか、スパイとか、ギャングとか穏やかでないものを扱う小説を訳すことが多かったから、まったくイメージを変えて。そしたら両方で仕事をいただけるようになって、それが今も続いている感じかな。

 

ーー訳すときに意識していることはありますか? 現代のものと古典を比べた違いとか。

 

加賀山 昔は、古典を訳すときはそれっぽい日本語じゃないといけないのかなと思っていたんですけど、でもよく考えたら作品ごとに器用に文体を変えることなんてできない。だから自然体です。自分がいいと思うように。若い人に読んでもらいたいので、あえて言えば、彼らが読んでも苦にならないような文体を心がけているということでしょうか。

 

ーーノンフィクションも同じ感じですか?

 

加賀山 ノンフィクションはもっといじります。なんて言うんですかね……正確じゃなきゃいけないですけど、もっと読みやすくするというか。個人的なあれですけど、小説は読んでいる時間が楽しいんですね。音楽を聴いているのと同じでその時間がいい。だけど、自己啓発本なんかは個人的には情報さえ得られれば、読書時間は短ければ短いほどいいと思ってる。だからちょっとでも短く読めるように工夫します。

 

ーーなるほど。ところで、ノンフィクションを訳すときのペンネーム、依田卓巳の由来は?

 

加賀山 加賀山は本名ですけど、依田のほうは、依田紀基さんという囲碁の名人がいて、わたし、けっこう好きだったんですよ。それで勝手にもらって、卓巳は、卓朗の卓にしっくりくる組み合わせを適当に考えました。

 

ーーなんで依田なのかと思ったら、そういうことでしたか!

 

加賀山 そうなんですよ、こっそり。囲碁ができるわけでもないんですが(笑)。

 

(聞きて:丸山有美)

 

『モーリス』
フォースター/加賀山卓朗 訳
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光文社古典新訳文庫

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Kobunsha Classics
「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」
2006年9月創刊。世界中の古典作品を、気取らず、心の赴くままに、気軽に手にとって楽しんでいただけるように、新訳という光のもとに読者に届けることを使命としています。
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