貧しいからこそ知った、あったかな生活の原点 鎌田實先生の新「へこたれない」ヒント1
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医師として国内外で精力的に活動する著者が出会った、数々の命の輝き――。
現役医師にして人気作家・鎌田實先生の著書『新版 へこたれない』(光文社知恵の森文庫・8月9日刊)より、選りすぐりのエッセイをご紹介します。
読後、きっと暖かな涙があなたの心を洗い流す、カマタ先生の“元気が出る”一冊!

 

 

貧乏だったけど、あったかな生活の原点があった

 

「子どもだって空気を読んでいるのに、なんで空気が読めない大人がいるのだろう」

 

「KY」って言葉がはやっている。空気が読めないってことらしい。あまり好きな言葉ではない。空気が読めない鈍感な大人と違って、子どもの心って、敏感で、繊細で、多感で、感性豊か。

 

学校にあがる少し前だった。「耳は何のためにあるの」って、聞かれた。「耳くそを掘るため」。確かにぼくはミミクソと言った。ぼくは全力で答えたのだ。
ふざけてなんていない。

 

ぼくが小一の頃、母さんは心臓が悪くて、いつも入院していた。母さんの病院のベッドにもぐりこむと、母さんが、ぼくの耳を掃除してくれた。気持ちがよかった。ぼくにとって、耳は聞くことよりも、大切な役があった。母さんとつながる大切な役。母さんは病気の時は、子どものぼくに何もできなくてさびしそうだった。ぼくが母さんを守るんだって思った。ぼくは母さんの膝の上に耳をおいた。

 

先日、ぼくはオランダで有名な絵を見てきた。絵を描いた人の名はゴッホ。
アムステルダムにあるゴッホ美術館。その人は自分で耳を切った。耳は切るものではなく、ミミクソを掘るためにあるんだって、ゴッホさんが生きていたら、教えてあげたいと思った。

 

父さんはタクシーの運転手をしていた。母さんの入院費をかせぐために夜遅くまで働いていた。ぼくは、いつも一人でさびしかった。

 

一人ぼっちにならないように、まわりの人にかわいがってもらえるように、貧しくても、家族がそろうことは少なくても、どんな時でもオタオタしないように生きてきた。

 

まわりの人に助けられて生きているのは、子ども心にもわかった。

 

いつも一人だけど、一人じゃないって教えられた。小さな人間だって必死に空気を読んでいるんだ。生きぬくために。

 

父さんは仕事と家事に疲れていて、いつもこわかった。父さんから褒めてもらったことはなかった。父さんのことを好きになれなかった。父さんの名前がすごい。岩次郎。名前のとおりに頑固な人だった。父さんが母さんを背負って、なげださないで生きているのを知っていたから、どんなに怒られても、ぼくは父さんのことをすごいと思っていた。

 

子どもはちゃんと大事なことを見ているんだ。

 

一つだけ、いい思い出がある。父さんは夜中、疲れて遅く仕事から帰ってくる。そんな時、東京の環七(環状七号線)に面した定食屋へぼくを連れて行った。

 

「實、何食べたい」っていつも聞いてくれた。
父のやさしさだってあとから気がついた。
いつも同じ答えだった。モヤシイタメ。
一番安かった。

 

一皿のモヤシイタメを二人で分けあう。貧しかったけど、豊かだった。
家にはお金がないのは知っている。小一の子どもの心だって、空気を読んでいた。

 

あれから五十年、亡くなる少し前、岩次郎がしみじみと言った。

 

「おまえ、モヤシイタメが好きだったなあ」
父さんは覚えていてくれたんだ。うれしかった。
ぼくは苦しまぎれに「うん」と答えた。

 

本当は卵焼きが食べたかったとは、父さんがあの世にいくまで言えなかった。

 

もう一つ、もう一つ言えなかったことがあった。
「コワカッタケド、父さん、ありがとう。おかげで空気が読めるようになりました」

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