宝塚歌劇場はもともとプールだった。天才経営者・小林一三の発想
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なぜ歌舞伎は一企業の松竹が独占しているのか。

 

なぜ鉄道会社である阪急が東宝と宝塚歌劇団を興したのか。

 

作家・編集者の中川右介氏は『松竹と東宝』(光文社新書)にて、二大興行会社の歴史をひもとき、舞台興行が近代化していく様を描き出す。

 

本稿はその一節から、阪急電鉄の経営者であった小林一三が宝塚少女歌劇団(当時)を誕生させた際のエピソードを紹介する。

 

宝塚劇場

 

日本初の屋内プール

 

宝塚に新施設「パラダイス」が開場したのは一九一二年(明治四十五)七月一日で、売り物は屋内プールだった。当時としては画期的、日本で最初の屋内プールである。水がきれいなこと、毎日、日本体育会の教師が来て水泳を教えるのが売り物だった。プール以外には「自動音楽」(オルゴールのことだろうか)、その前に立つと幼い頃・現在・将来の自分の姿が映るという「まぼろしの鏡」、持っているバラから香水を注ぐ「香水美人」、あるいは室内運動場など、さまざまな見世物、施設があった。その外観は白いルネサンス式洋館で、鉄筋三階建て。一階は一五〇坪のうち一〇〇坪が巨大な水槽、つまり屋内プールだった。浅い所で二尺(約六十センチ)、深い所で八尺(約二・四メートル)で、大人でも子供でも楽しめるように造られた。

 

しかし──小林は戦争末期の昭和二十年七月三日の日記に当時を回想して、〈ところが大失敗。此プールは盛夏の間でも冷水で日光が直射しない屋内であったから、つめたくて、寒くて五分間以上は遊泳が出来ない。〉屋内プールは温水にしなければならないことを知らなかったのだ。さらに当時は女性が見物することと男女共泳が禁止されていたのも致命的だった。

 

一五〇坪の施設の三分の二の一〇〇坪のプールは、無用の長物となってしまった。さてどうするか。小林は閃いた。プールの水を抜けば、そこは傾斜のついた巨大スペースとなる。そこに椅子を並べれば劇場の客席になるではないか。プールに隣接している脱衣場を改築して舞台にしよう──と思い付いたのだ。

 

その舞台で何を上演したらいいか。三越で少年音楽隊が人気を呼んでいるのを小林は知っていた。帝劇で歌劇も見ていた。こうしたことから少女による歌劇上演を思い付いた。

 

失敗から成功が生まれたという「伝説」

 

宝塚歌劇誕生物語は、以上のようになっている。小林自身が話したり書いたりしていることを根拠として、この物語は流布していったわけだが、二〇一七年七月刊行の伊井春樹著『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』(以下、『夢を託したのか』と略す)はこの神話ともいうべき伝説を検証している。同書によると、プールが失敗したので劇場に転用、改築したのではなく、プールは最初から劇場としても使えるように設計されていたという。

 

「大失敗から大成功が生まれた」という物語は、日本初の屋内プールを作ったという「先見性」、失敗したと認めるとすぐに撤退した「決断力」、そしてプールを劇場にしようという大胆な「発想」と、小林一三の天才性の象徴として流布、拡散したわけだが、これは巧妙な歴史の書き換えだったようだ。

 

パラダイスのオープンは七月、つまり夏だ。しかし冷水だと五分が限界だった、温水でなければならなかった、と小林は回想している。しかし、夏ならば冷水でいいと思っていたとしても、冬はどうするつもりだったのか。冬もプールとして使うのなら温水にすべきだし、温水にすると考えなかったのであれば、はじめから冬はプールとして使うつもりはなかったのではないか。

 

『夢を託したのか』は、当時の新聞記事を引用している。そこには〈冬期は水槽の上一面に蓋を掩いて客の座席に宛て〉と書かれていた。つまり最初から劇場としても使う予定の設計だったのだ。小林はそれを忘れたのか、話を面白くする(失敗したほうが面白い)ためにか、「プールは失敗したので劇場にした」物語を流布させたのである。

 

夏はプール、それ以外は劇場・ホールという、当初からの発想も称賛していいはずなのだが、夏のプールが失敗に終わったことから、その部分的な失敗を隠すために、「大失敗したが発想を転換させて大成功した物語」に改変されたのだろうか。小林一三の歴史改変の意図は分からない。

 

では実際に夏が終わった後、どのように利用していたのか。『夢を託したのか』では秋から冬に何か催したかどうかは不明としているが、翌大正二年三月から五月には「婦人博覧会」が開催されたとある。その博覧会の期間には、有楽座による「女優家庭劇」が上演された。

 

そして夏になると、再びプールが開場している。前年、閑古鳥が鳴いたにもかかわらず、二年目もプールとして使用しているのだ。このことから、最初から夏季はプール、それ以外は劇場なりイベント会場として使うつもりだったことは明らかだ。 だが、三年目からはプールとしては使われない。宝塚少女歌劇の人気が予想以上で、プールにするよりも、公演させたほうがいいと判断されたのだ。

 

少女歌劇誕生のもうひとつの謎は、三越少年音楽隊から着想したとして、なぜ「少年」が「少女」に、「音楽隊(吹奏楽)」が「唱歌隊」になったのか。これは単純で、男子よりは女子のほうが日給が安くすむのと、吹奏楽は楽器を揃えなければならないし指導するにも時間と費用がかかるが、唱歌隊なら楽器を買わなくていいし、使い方を教える必要もない。つまり、すべて財政的理由だった。そもそも少年少女の楽団というのが、大人よりも人件費が安くすむという発想だ。

 

宝塚は世界にも例を見ない女性だけの歌劇団へと発展していくが、最初からそういう「世界唯一」のものを目指していたわけではないし、「歌劇」の上演も目指していない。温泉場のアトラクションとしての唱歌の合唱団として結成されたのだ。

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