〈あとがきのあとがき〉ラテンアメリカ文学の面白さを見直すため─短編作家としてのコルタサル─寺尾隆吉さんに聞く(後編)
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光文社古典新訳文庫の翻訳者にインタビューする〈あとがきのあとがき〉。「訳者あとがき」には書き切れないような、翻訳にまつわる裏話、訳書との出会い、はたまた翻訳者の知られざる私生活まで、縦横に語ってもらいます!

 

◆前編はこちら>>

 

時間や人称の自在な交換で見えてくるもの/後半の4篇

 

──「偏頭痛」。これは読むのが苦しかった。

 

寺尾 ホメオパシーの話ですね。翻訳もこれが一番大変でした。まず、マンクスピアという動物が出てきますが、これは架空の動物です。描かれているもののいちいちが、どういうものかわかりにくいし、頻出するホメオパシーの用語もわけがわからない。これは私も相当苦労しました。

 

──「解説」によると、コルタサルが通訳の勉強でノイローゼになったときに書いたとか。

 

寺尾 ええ。「毒をもって毒を制す」ために書いたと言われています。ホメオパシーというのは、アルゼンチンで30年代とか40年代にけっこう流行した一種の民間療法のようです。いろいろな人が病気の治療に使っていて、他にも似たような治療法があり、怪しげな藪医者もけっこういたようですね。

 

ちょっとオカルトっぽいところもあったようで、当時のビオイ=カサーレス*2の日記などにも出てきますし、彼の回想録にも書いてあります。神霊実験みたいな儀式を行うこともあったようです。

 

*2 アドルフォ・ビオイ=カサーレス(1914年~1999年)、アルゼンチンの作家。代表作に『モレルの発明』など。幻想的な作風で知られ、短編の名手でもあった。

 

──自分がノイローゼになりかけているときに、ああいう作品を書いたということは、コルタサルにとっては文学がセラピーでもあったわけですね。

 

寺尾 そういう側面はあるでしょうね。食べられなくてスープも飲めなくなったときに、短編を書いて食べられるようになったとか、そういうことを言っていますから。

 

──そういう書き方は、いわゆる神様の視点で小説を書くんじゃありませんから、その先には、いわゆる近代的な自我に囚われた作家が書く作品とは違う世界が開ける可能性があると思います。本人は、その辺のことをどう考えていたのでしょう。

 

寺尾 シュールレアリズムとか、前衛芸術一般から重要な着想を得たと言っています。オートマティズムとか、そういう無意識の領域を創作の中に取り込んでいますし。彼は、現実の壁を何とか破って、フィクションの世界や虚構の世界、あるいは夢や無意識の世界に入っていくことを楽しんだ作家だったのでしょうね。つまり、現実を広げると言うのか、現実世界という壁を打ち破るための手段としてフィクションがあるという見解があったんだと思います。

 

──生と死の関係にもそれが言えますね。日常的な生の世界の壁を破って、死の世界に近づいていくという。というわけで、次は「キルケ」になります。これは、まさにその生と死を扱った作品ですね。

 

寺尾 ええ。コルタサルが生と死を扱った作品には傑作が多いです。ギリシア神話の素養がないと少しとっつきにくいところがありますが、探偵小説めいたところもあり、特に気にしなくても大丈夫です。コルタサルには、9歳ぐらいからポーを読んでいたという逸話があって、この作品にはその影響が如実に出ていると思います。こういうおどろおどろしい話、彼は嫌いじゃない。人間の内に巣食う悪魔みたいなものを書くのが好きですね。

 

──最後に正体を明かされかけたデリアが、追い詰められて叫ぶシーンがあるじゃないですか。あそこが怖かった。

 

寺尾 ええ、私もぞっとしました(笑)。

 

──「天国の扉」は、最後のシーンに驚きました。あれ? 死んだ本人が出てきちゃったと思ったものですから。

 

寺尾 そうですね。たとえば、「セリーナはそこにはいない」という死んだことを悲しむ通常の叙述文と「セリーナは我々のほうを振り向きもせず~」というありえない描写を、改行のない長い段落のなかに絶妙に混在させて、現実と幻影とをうまく近づけて、独特の効果を出すことに成功しています。

 

サバティカル中の2014年8月に
ニカラグアの作家セルヒオ・ラミレス(コルタサルの親友)とニカラグアのマサヤで

 

──われわれ編集者が拙いリライトなどをするときに、まず気にするのが人称です。人称が混乱していると、人間関係がよくわからないですから。ここではその幻想と現実が入り混じる複雑な関係が、すっきりと表現されていると思いました。

 

寺尾 ええ。そこらへんはコルタサルも厳密に追っていると思います。実はこれ、勘でやっている部分も恐らくあるけれど、推敲のときには綿密にチェックしているようですし、はじめはインスピレーションに駆られてバーッと書いていくんでしょうけど、最後にはきちんと効果が出るように直していますよね。

 

──さきほど、保坂和志さんの「小説は作者を超える」の話が出ました。コルタサルの場合も、要はそういうことだろうと思うんです。つまり、インスピレーションに駆られた書き方と、人称などを細かなところまで後追いする緻密な作業とが、矛盾せずに両立する幸福な場合があって、そのときに自分の意図を超える、作家の主体性以上の小説が現れるということですね。見事だと思います。

 

寺尾 作品が自立した生き物になっていくということですね。だからこそ、いろいろな読み方ができるし、どこの国の人でも読むことができる作品になるんだと思います。

 

──普通に解釈だけにこだわ拘って読んだら、こういう作品は枯れてしまいます。いくらも多様な解釈、矛盾した解釈が可能だし、だからこそ面白い。

 

寺尾 そうですね。「天国の扉」が私にとっては一番面白かった。他もすべて読み応えがありますけど。

 

──最後は「動物寓話集」です。この作品では、少女の一人称のモノローグと、客観的な三人称を使った語り手の叙述が混在しています。その交換が臨機応変で、自由な叙述の中に実にスムーズに少女の語りが入ってくる。そこで浮かび上がるのは、コルタサル自身にある少女への共鳴と同調です。そこから出てくる立体感も強烈でした。

 

寺尾 私もそう思います。コルタサルは人称の使い方が絶妙です。yo(私)と言ったり、ときにはtú(君)と言ったり。つまり「あなた」とか「おまえ」とか「きみ」とか、「あなた」に宛てるいろいろな形で滔々と書いていって、それがフッとあるときに一人称「私」に変わったり、三人称になったりする。この作品ではまだそこまでいっていませんが、すでに一人称と三人称の絶妙な交錯という側面は見えていますし、これは前の短編「天国の扉」も同じだと思います。

 

嘘も「文学のうち」である

 

──「奪われた家」でしたか、コルタサルが雑誌社に持ち込んだときにボルヘスと出会ったというもっともらしい逸話があって、実はこれが現在では偽りだと言われているようですね。

 

寺尾 そうです(笑)。編集部に処女短編を持っていったらボルヘスがいて、彼に渡したら「一週間後にもう一度きてくれ」と言われて、言われた通りに出かけていくと、「あれはすばらしい短編だから出版に回した」と言われた、という話ですね。ボルヘスがコルタサルから聞いたと言っています。しかし、当時を知る人の証言によると、コルタサルは原稿を人に託して編集部に届けてもらったということですし、ボルヘスはそもそも編集部に顔を出すことがまったくなかったようです。

 

──意図的なデマが伝説と化したわけですか。

 

寺尾 そうでしょうね。二人が結託したか、あるいはボルヘスの独断だったのか。とにかく書いているのはボルヘスです。そういう捏造された逸話は、ラテンアメリカ文学の世界にはけっこうあります。

 

──他に何か、有名な伝説化の逸話はありますか。

 

寺尾 ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサがベネズエラのカラカスに行ったときに、カラカスからメリダという山の中の町へ行って、そこから帰ってくる飛行機が山の中ですごく揺れて落ちそうになった。そこまでは本当の話です。ところが、そこでバルガス・ジョサがパニックに陥って、ガルシア・マルケスの胸ぐらをつかんで話しかけたという。そして、「どうせこのまま二人とも死ぬのだから、本当のことを言ってくれ。カルロス・フエンテスの『聖域』をどう思った」と訊いてきた、とガルシア・マルケスがインタビューで言ったようです。それが伝播して、死にそうになったバルガス・ジョサがフエンテスの小説についての評価を聞きたがったという逸話が広がった。でも、これは完全にガルシア・マルケスのでっち上げです。

 

──そういうことが珍しくないのですか。

 

寺尾 珍しくありません。カルペンティエールなどは、出生地を偽っています。彼は生涯ずっとハバナの生まれだと言い張っていましたが、スイスのローザンヌから出生証明が出てきて、調べてみると間違いないという結論でした。

 

──それは、ただの経歴詐称というようなものじゃなくて、寺山修司が自分の出自で嘘をついていたみたいなもので……。

 

寺尾 文学の一部ですね。

 

──面白いなぁ(笑)。寺尾さんは今回の『奪われた家/天国の扉』をどう評価なさいますか。

 

寺尾 優れた短編集ですし、傑作ぞろいだと思います。コルタサルが初めて出版した短編集でもあります。日本では今までは一本ずつバラバラに紹介され、切り売りされていたわけですが、やはり八本まとめて一つの本というふうに捉えるべき本だと思います。すべてブエノスアイレスとその周辺が舞台になっていますし、彼が現実という枠をどうやって乗り越えていこうとしているか、その方法を多様な形で模索する様子が見て取れます。それをバラバラに訳したのでは、小説の一部分だけ読んでいるような感覚になるかもしれない。八つまとめて五一年に出版された姿で再現したことで、そこに通底するものが見えてきて、そこが一番面白いところだと思います。ブエノスアイレス時代のコルタサルが何を追い求めていたのか、初期コルタサルがどのように創作に臨んでいたか、非常によく出ている本だと思います。アンソロジーなどに入れられてしまうと、「奪われた家」も、チャーリー・パーカーを扱った「追い求める男」も、有名な「アホロトル」(ウーパールーパーのこと)も、みんな同列に扱われてしまって、時代の違いが見えてこなくなってしまう。コルタサルの出発点がどこにあったのか、この八作全部並べて読むことで探る面白さがあると思います。そういう意味でも、これを日本語で出すことの意義は大きかったと思います。

 

──先ほどの言葉で言うと、中性的というのが一つのキーワードになりませんか。

 

寺尾 そうですね。いやらしい性の匂いはしないけれども、性的暗示が随所にちりばめられているという感じでね。

 

──ある意味で、汚れがないのかもしれないけれど、いびつ歪でもあるという(笑)。

 

寺尾 そうです。ともあれ、やはりコルタサルの出世作であり出発点です。

光文社古典新訳文庫

光文社古典新訳文庫

Kobunsha Classics
「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」
2006年9月創刊。世界中の古典作品を、気取らず、心の赴くままに、気軽に手にとって楽しんでいただけるように、新訳という光のもとに読者に届けることを使命としています。
光文社古典新訳文庫公式ウェブサイト:http://www.kotensinyaku.jp/
光文社古典新訳文庫公式Twitter:@kotensinyaku
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