村上春樹の物語世界に描かれる「魂の回顧録」『騎士団長殺し』

横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店

『騎士団長殺し』新潮社
村上春樹/著

 

 

 この物語の語り手は、肖像画家の「私」。愛する妻ユズと二人で穏やかで満ち足りた生活をしていたが、ある日突然離婚を切り出される。

 

〈とても悪いと思うけど、あなたと一緒に暮らすことはこれ以上できそうにない〉

 

もうすぐ6回目の結婚記念日を迎える直前の出来事だった。妻は私に「あなたに責任はない」というが、かといってやり直す意思もないという。私は妻と二人で暮らしていた家を出て、古いプジョーに乗ってあてどなく東北の街を旅する。

 

地名も覚えていない街で出会った、奇妙で暴力的な一夜を過ごした女。私のした行いを全て知り、監視しているかのような『白いスバル・フォレスターの男』。

 

やがて、プジョーが私の身代わりのように動かなくなり、旅を終わらせた私は、美大時代の友人の雨田雅彦に連絡をとり、彼の父親である高名な日本画家、雨田具彦が生涯、絵を描き続けた小田原の山頂にある家で暮らすことになる。

 

そんな私に肖像画の依頼をしてきたのは、豊かで真っ白な白髪をたくわえた謎多き紳士の免色渉。免色が異様な執着をみせる13歳の秋川まりえ。屋根裏に隠され雨田具彦の秘密を宿した『騎士団長殺し』という絵画。絵画の中から飛び出してきたようなイデアである騎士団長。15歳で短い生涯を終え唯一無二の存在の妹のコミと、今も想い続けている妻のユズ。

 

物語には、たくさんの謎と予言と、示唆と真実が散りばめられている。

 

「私」や、私が出会う人々は愛する人を否応なく奪われた過去をもち、今もなお、喪った人の姿を追い求めつづけている。かつての大切な人のためのスペースが今も心の中にあり、その場所は他の誰かで埋めることは決してできない。その人の形にぽっかりと空いた穴がある。

 

『騎士団長殺し』という絵画を見つけ、閉じられていた環を開いてしまった私。環を閉じるには、暗く危険に満ちた場所に降りたつ必要がある。

 

その場所では癒えることのない傷や、過去に流された血が〈二重メタファー〉という名の危険な存在に姿を変え、私をその場所から逃がすまいと長い手を伸ばしている。私自身の存在さえ揺らぐ真っ暗闇の中で、予祝のように現れた辺りを照らすカンテラの光。その光が浮かび上がらせたのは、『騎士団長殺し』の絵の中で悲痛の表情を浮かべていた美しきドンナ・アンナ。

 

〈風の音に耳を澄まして〉

 

その声はドンナ・アンナの声であり、ユズの声であり、コミの声だ。その声は、光となり私の行くべき場所を指し示す。

 

二重メタファーの触手から逃げ切り、現実世界に戻った私は小さな命に真実を語る。

 

「この世界には、目に見えるものも、目に見えないものもある。そこには愛も光も、闇も暴力もあるし、騎士団長もアリスもいる」

 

魂の回顧録を、画家はいつか絵にするだろう。小説家は、一冊の本にするだろう。物語は未来に受け継げられ、物語を受け取った者もいつか愛する人に自らの物語を手渡す日が来る。

 

さて、私自身の物語はどうだろう。誰にも語られることなく、この世界のどこかに消えてしまうものかもしれない。風が吹くと飛ばされてしまうような儚いものかもしれない。けれど、日々紡がれていく物語を、私はこの目でたしかに目撃していて、そのつど心に生まれる言葉があることを知っている。

 

私は〈私自身の物語〉を一冊の本にしたい。いつか愛する人にその物語を手渡し、愛する人の物語が目の前に差し出されたのなら、しかと受け取ろう。

 

どんな物語にも紡がれるべき言葉があり、その物語を必要としている人がいる。物語の中には私の、あなたの心が描かれているから。

 

 

『騎士団長殺し』新潮社
村上春樹/著

この記事を書いた人

横田かおり

-yokota-kaori-

本の森セルバBRANCH岡山店

1986年、岡山県生まれ。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。

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