人々の生活と地続きにある情景を育み、常に自然体であり続ける韓国の詩人「申 庚林」

青柳 将人 文教堂 教室事業部 ブックトレーニンググループ

『ラクダに乗って 申庚林詩選集』
申庚林(シン・ギョンニム)/著 吉川凪/翻訳

 

 

今年の夏は河出書房新社さんから発売した『文藝』秋号の重版に次ぐ重版で、普段文学雑誌を読まない一般の読者にも、韓国文学が日本国内で盛り上がっていることを知れるきっかけになったのではないか。

 

特集の巻頭を飾ったのは、世界的ベストセラーになり、今年の秋の韓国上映を皮切りに順次各国での映画公開予定が控えている『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著 筑摩書房)の他にも数多くの韓国文学作品の翻訳を手掛けている翻訳者・斎藤真理子さんと、数多くの海外文学の名作の翻訳を手掛け、エッセイストとしても活躍の場を広げている鴻巣友季子さんの対談。その中で、かつて韓国では文学としてだけではなく、大衆的に詩を読んだり書いたりすることが浸透していたというエピソードが語られていた。

 

本誌の中では、韓国文学を代表する作家のハン・ガンが、まるで詩を詠むようにして、記憶を手繰り寄せながら、大切な人への思慕を描いた、とても詩的で繊細な短編を寄稿していたし、映像作家、エッセイスト等、その才能を多くの分野で開花させているミュージシャンのイ・ランは、ユーモアとセンチメンタルを行き来しながら、絶妙なバランスで等身大の自身の姿をありのままに歌に乗せる。その文才は本誌に寄稿しているエッセイを読めば十分に伝わるだろう。

 

かつての詩への傾倒は、現在の韓国文学作品にも多大な影響を与えているのではないだろうか。

 

最も詩を詠むことが盛んだったであろう80年代から現在に至るまで、数多くの詩を詠んできた、韓国を代表する詩人のシン・ギョンニム。本書はシン・ギョンニムが半世紀にわたって詠んできた詩を、90年代に彼の元へ弟子入りしていた経験を持つ翻訳家の吉川凪によって翻訳、編纂された、師匠愛に溢れる詩集だ。

 

1975年に初めて発表した詩集『農舞』から、近年に発表された最新詩集『ラクダ』まで、韓国の庶民の暮らしと地続きに繋がったシン・ギョンニムの詩の世界の魅力が余すところなく詰め込まれている。

 

その郷土を詠んだ詩が多くの韓国の人達に愛されてきた背景には、シン・ギョンニムの父親が、自宅を戦後に帰国してきたけれど住むところの無い、困窮した人々の受け入れ先にしていた経緯があり、自宅に実に多くの人々が家を出入りしていたのを幼い頃から観察していたことも多分に影響しているだろう。

 

シン・ギョンニムの詩は、淡々と歴史に刻まれた悲しみを語り、そして庶民の心の叫びを代弁する。それは歌の歌詞のようにリズミカルに、気持ちを弾ませ、そして時にはわらべ歌のように背中を撫でてくれる。そう、それはまるでわが子を寝かしつける母親のように。

 

海を隔てた向こう側の、歴史も文化も異なる国から生まれた、その国の郷土や人々を詠んだ詩なのに、すんなりと言葉を享受できるのは、一つ一つの言葉がとても自然体にまとまっているからだ。誰を腐すこともなく、誰も貶めることはしない。自国だけではなく、国境を越え、海を隔てた先に住む私達にだって彼の詩は平等で、両手を広げて迎え入れてくれる。

 

「『社会主義を超える地平はない』
 あれはソルボンヌの塀で見た
 サルトルの落書きを真似たやつ
 その落書きの下で四人の大学生が盛んに論争中だ
 社会主義は決して没落したのではない、と
 聞き慣れた口調に
 ぼくは下手な日本語でさりげなく口をはさむ
 それなら亡びたのは現実社会主義だけなのか、と
 若者はソウルも京都も同じだし
 ぼくの台詞もありきたり
 そう 身ぶり手ぶりで笑う楽しみもあるさ

 くだらない言葉遊びを終えて飲み屋を出れば
 大粒の雨が小気味よく降りしきり
 ぼくはしばし雨宿りをしながら
 堀川の裏通りを仁寺洞と錯覚する
 社会主義が滅亡するはすはない、
 たとい貧しくとも主体の国は美しいのだ、と
 他国のことや自国のことを声高に論じる声が
 焼き鳥の煙とともに
 子供の頃ひもじかった記憶を呼び覚まし
 ぼくは今更のように寂しくなる
 宝屋の軒先で」

 

この詩は、シン・ギョンニムが京都を訪れた時の情景を詠んだ『一杯飲み屋「宝屋」の軒先で ―京都にて』という作品。

 

堂々巡りで終わりの見えない論争の不毛さ、その不毛さからそこはかとなく醸し出される滑稽さが「身ぶり手ぶりで笑う楽しみもあるさ」という一文から読み取れて、会話とのギャップがおかしく、飲み屋で顔を真っ赤にしながら熱く語り合う若者と著者の姿が頭の中に浮かんでくる。

 

そしてこれは『砂漠』という作品の中の、他国へ旅行に行った時の独特の開放感を捉えた一文。

 

「知っている顔がなく他人の言葉が聞き取れないために
 初めて得られるこの自由と開放感」

 

この一文を読んだ上でこの作品を読み返すと、京都の若者をソウルの若者と重ね合わせることで、著者の愛国心からこみ上げる寂寥感がよく伝わってくる。

 

文学だけではなく、音楽に身を委ねて肩を揺らすように、映画を見て悲しい気持ちになったり大声で笑ったりするように、一枚の絵画にため息を吐くように、国境を越えて作品の素晴らしさを感受することができるのはとても素晴らしいことだ。何十年も前とは違って、様々な媒体から読み、そして見聞きしたことを簡単に発言できる今だからこそ、国境を越えて良い作品に出会った時には、素直な感情を表に出す勇気を少しだけでも持てたら、それはとても素敵なことだなと思う。

 


『ラクダに乗って 申庚林詩選集』
申庚林(シン・ギョンニム)/著 吉川凪/翻訳

この記事を書いた人

青柳 将人

-aoyagi-masato-

文教堂 教室事業部 ブックトレーニンググループ

映画学校、映像研究所を経て文教堂に入社。王子台店、ユーカリが丘店、青戸店、商品本部を経て現在に至る。過去のブックレビューとしてTOKYO FM「まえがきは謳う」、WEB本の雑誌「横丁カフェ」がある。

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