9歳と19歳。出会うべきでなかった二人が出会ってしまった時、何かが始まる

横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店

『流浪の月』東京創元社
凪良ゆう/著

 

 

瞬間、周囲の音は一切消え失せた。突然、しんと静まりかえった世界に聞こえてきたのは、すすり泣くような切ない声。くすくすと笑いあう愉しそうな声。耳を澄まさないと聞こえないくらい、かすかなものだ。しかし、この声が二人のものだということに気づいた途端、風に攫われたかのように、その声はぴたりと止んだ。まるで、二人の存在を世界に気づかれないようにするためみたいに。でも、たしかに聞こえた。二人が生きている鼓動が。

 

九歳の更紗と、一九歳の文(ふみ)。二人が、出会ったとき。もしかしたら、出会わなければ良かったのかもしれない始まり。

 

更紗は幸福な子ども時代を過ごしていた。美しく自由奔放で、父のことが大好きだった母。生活を営む能力に長け、母と更紗のことを深く愛していた父。正反対の二人の豊かな愛情に包まれ、更紗はあたたかな毛布にくるまれたような生活を送っていた。外の世界でなんと言われ、なんと思われようが、父と母と暮らす日々さえあれば、更紗は満たされていた。しかし、父が突然の病でこの世を去ってしまい、三人の甘くて砂糖菓子みたいな生活はあっという間に崩壊した。母は、更紗を置いて出ていった。

 

それから、更紗は親戚の家に預けられたが、その家で誰にも言えない秘密を抱えてしまう。夜が怖い。家に帰りたくない。学校帰りに公園で時間をつぶす更紗と、いつも子どもたちをじっと見つめ、「ロリコン」だと言われている男の人は、雨降る夕暮れに二人きりになった。傘を差しだしてきた顔を初めてまじまじと見ると、鼻筋の整った、とてもきれいな顔立ちの青年だった。どこか、父にも似た面影があった。

 

「帰らないの?」「帰りたくないの」
「うちにくる?」「いく」

 

ここから、更紗と文の同居生活が始まり、そして、この生活はあっけなく世間に知られた。世間は二人の出来事を「事件」とし、文は犯罪者のレッテルを貼られることになり、更紗は被害者になった。けれど、二人で過ごした時間は、人々が想像するようなものでは決してなかった。

 

かつて更紗が、父と母と三人で暮らしていた頃。更紗の母は、母ならこうあるべきというしがらみや常識を一切持たず、自分の好きなもの、うつくしいと感じるものを、何よりも大切にしていた。

 

けれど、文の母は違った。教育者で、教科書や本に書かれている通りのことが一番正しいと信じ、それを自分の子どもにもあてがった。「普通」でないものや「変」なものは子どもに一切与えないし、「型」からはみ出すことは許さない。兄は、そつなく順応できていたのだ。しかし、文にはそれができなかった。さらに、思春期に差し掛かるころ、誰にも打ち明けられない秘密まで抱えるようになっていた。

 

更紗と文は、更紗が幸福だった時代にいつもしていた、たくさんの楽しいことを二人でした。夜ご飯としてアイスクリームを食べたり、映画を観ながら、だらだらピザを食べたり。自由に起きて、自由に寝て。「型」に自分を押し込めていた文にとって、更紗の暮らしぶりは、とても新鮮で驚きに満ちていた。更紗も、家族三人で暮らしていた以来の、自由な生活に固く閉ざしていた心が緩んでいった。

 

心に重い枷をはめられた二人が、傷つく前の自分でいられた時間。安心して、生まれたての自分に戻れる場所。傷を抱えた者同士が、そっと寄り添い、生きていただけなのだ。子どもみたいに、泣いたり笑ったりしていただけなのだ。ただ、それだけだったのに。

 

二人の関係は、恋人でも、友人でも、家族でもない。しかし、それらを全部ひっくるめたような、適切な言葉が見当たらない関係を二人は構築していた。でも、それはそうなるしかない理由があったのだ。
もし、子どもの頃の二人を、絶対的に守ってくれる大人がいたら。もし、二人が出会ったとき、互いが成人していたら。もし、二人が出会わなければ―。
あらゆる「もし」を積み上げても、過去は変えられないし、傷だらけの二人を守ってくれる人は、今も、過去にもいない。

 

けれど、こんな「もし」があったなら。もし、二人が、今も共に生きているなら。

 

二人が共に生きていく選択をするなら、それは茨の道になる。いつまでも世間からは後ろ指をさされ、過去の出来事を蒸し返される。なぜあの時、二人が一緒にいたのか。そこに、どんな事情があったとしても、「正しさ」に何の疑問も抱かず、糾弾する人々は、小さな声に耳を傾けることなどないのだから。

 

別々の道を選択する方が、きっと賢いやり方なのだろう。けれど、こんなにも深い絶望を、心が引き裂かれるような痛みを共有しているのは、この世にたった二人しかいない。沸き立つような喜びも、胸いっぱいに広がる幸福も、二人が共に過ごすことでしか生まれないと、もう知ってしまった。

 

だからこそ、私は心が引きちぎれるくらい祈る。
どうか今度こそ、繋いだ手を離さないでと。

 

『流浪の月』東京創元社
凪良ゆう/著

この記事を書いた人

横田かおり

-yokota-kaori-

本の森セルバBRANCH岡山店

1986年、岡山県生まれ。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。

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