認知症になった父が「ソングアミニットマン」として脚光を浴びるまでの実話

金杉由美 図書室司書

『父と僕の終わらない歌』ハーパーコリンズ・ジャパン
サイモン・マクダーモット/著

 

 

愛車でドライブ中の親子。運転する息子の隣でカーステレオにあわせて自信満々に朗々と歌う父。次から次にとぎれなく続く歌。声量の豊かさと音程の確かさは老いを感じさせない。周りを走る車や道行く人々も、陽気なふたりに微笑みかける。

 

この親子は、YouTubeで「ソングアミニットマン」として有名になったテッド・マクダーモットと息子のサイモン。
仲睦まじく楽しげなふたりだが、車から降りればつらい現実が待っている。

 

『父と僕の終わらない歌』では、ページ数の半分以上を費やしてテッドの半生が語られる。14人兄弟の長男として生まれ、様々な職業を経験し、旅をして恋をして、やがて伴侶に出会い家庭をもつ。音楽と人生を愛し、人生と音楽に愛された日々。

 

けれど、客観的に見てテッドは平凡な市井の人でしかない。旅芸人として舞台に立ったりクラブで歌ったりもしたが、テレビに出演してレコードを出すような歌手にはなれなかった。そんな彼の生涯をこれほど微に入り細に入り長々と綴る必然性があるのだろうか?
そう、必然性はある。
著者であり息子でもあるサイモンにとっては。

 

テッドは、ユーモアがあり愛情豊かな男だった。
それなのに認知症が彼を気まぐれで暴力的な男に変えてしまった。
なんでもないことで突然激怒し荒れ狂う夫に妻のリンダは追いつめられ、「もうあの人なんて大嫌い。いなくなってほしいと思う」とまで口にする。

 

かつて愛した夫はどこかへ消えてしまい、粗暴で憎しみに満ちた見知らぬ男がそこにいる。

 

もうあの優しいテッドには二度と会えない。
それは家族にとってなんと恐ろしく悲しいことだろう。
蝕まれた記憶、コントロールできない感情、壊れていく人間関係。
暴言を浴びせられ信頼を踏みにじられる家族の苦しみ。
家族以上に恐怖に襲われて怯えているのは、テッド本人だ。
認知症はテッドから人生を奪ってしまったのだ。

 

マクダーモット家に起きた悲劇を他人事には思えなかった。
私も同じような経験をしたから。
数年前に母が脳梗塞を患い、子どものようにわがままでだらしなくなってしまった。
いくつになっても親は親で困ったときに頼れる存在だという感覚が私の中のどこかにあったのに、それが突然失われて、足元が崩れていく不安を覚えた。

 

老いや病気が人格を変えるのはよくあることだとしても、それが家族に起きたときに受け入れるのはとても難しい。
性格の邪悪な面だけが残されたようで見ていてつらかったし、母の言動を邪悪だと感じる自分のことも嫌だった。
そして何より悲しいのは、そんな変わり果てた親の姿を他人に見られること。
本当はこんな人じゃない。誤解しないでほしい。
病気のせいで違う人格をまとってしまっただけで、着ぐるみの中には本来の母がいるはず。

 

だからこそ、息子は父の過去を語りなおさなければならなかった。
ずたずたにされた思い出の中から丹念にエピソードを拾い上げなければならなかった。
着ぐるみの中に隠された父がどんなに素晴らしい人間かをみんなに知ってもらうために。
テッド・マクダーモットという男が生きていたという、その証を残すために。

 

病気によって何もかもが砕け散っていく中でサイモンは、失われていく父をこの世界につなぎとめておく手段として音楽が役立つことに気がつく。

 

歌っている時だけは、明るく自信にあふれた昔の父が着ぐるみを脱いで甦る。
ドライブしながら音楽をかけ、声をあわせて歌う父と息子。
その様子を撮った動画が、やがて奇跡をおこす。
動画は全世界で再生されて話題をよび、歌声は広まった。
「ソングアミニッツマン」は人気者となり、テッドは80歳にして歌手デビューを果たす。
更に、親子はなんと英国栄誉賞を受賞する。

 

これは、夢を叶えた父と、父の人生をとりもどそうとした息子の物語。
今も認知症は進行し父は消えつつあるけれども、思い出は決して消えない。

 

こちらもおすすめ。

『長いお別れ』文藝春秋
中島京子/著

 

認知症になりゆっくりとこの世界から去っていく父。
かつては中学校の校長で元気なころは厳格な紳士だった父が、老いて子供のようになっていく姿は愛らしくも切ない。
でも、こんなお別れも悪くはないかもと思えてくる。

 

『父と僕の終わらない歌』ハーパーコリンズ・ジャパン
サイモン・マクダーモット/著

この記事を書いた人

金杉由美

-kanasugi-yumi-

図書室司書

都内の私立高校図書室で司書として勤務中。 図書室で購入した本のPOPを書いていたら、先生に「売れている本屋さんみたいですね!」と言われたけど、前職は売れない本屋の文芸書担当だったことは秘密。 本屋を辞めたら新刊なんか読まないで持ってる本だけ読み返して老後を過ごそう、と思っていたのに、気がついたらまた新刊を読むのに追われている。

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