逢衣と彩夏、二人の恋には越えなければいけない壁が無数にあった。

横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店

『生のみ生のままで』集英社
綿矢りさ/著

 

 

〈退屈などしていなかった。〉

 

そう、逢衣(あい)は退屈なんてしていなかった。高校生の時に憧れていた一つ年上の男性と付き合い始めて二年が経ち、彼のことを一途に想っていた。夢は、早くに結婚して子供を三人産むことだった。けれど、逢衣の人生は彩夏(さいか)に出会ってしまって、思わぬ方向に進んでいくことになる。

 

逢衣と彩夏が出会ったのは二人が25歳の夏のことだった。逢衣と彩夏は、それぞれ男性の恋人と旅行で訪れたリゾート地で出会った。二人の恋人は子供の頃、家族旅行でこの地に来るたびに一緒に遊んでいたが、久しぶりの再会だった。

 

彩夏の第一印象は最悪だった。初めて会ったというのにろくすっぽ挨拶もせず、小さな顔にかけたサングラスも外すことはない。後から話を聞くと、芸能活動をしている彼女にとっておしのびでの旅行だったらしく、周囲の人にばれたら困るという理由のそっけなさだったらしいが、それにしても。
せっかくならと四人で過ごすことになったが、逢衣と彩夏に共通の話題はなく、気まずい空気が流れる。それなのに、なぜか逢衣には彩夏からの熱い視線がたびたび向けられる。特に言葉を交わすわけでもないのに、視線だけが逢衣にまとわりつく。訳が分からない。

 

海へ行った帰り道、突然の大雨に見舞われた。四人を乗せた車はあと少しでホテルというところで泥濘にはまって身動きがとれなくなり、逢衣と彩夏は二人で助けを待つことになった。やがて雷の音がしてきて、彩夏は気が触れたかのように身につけている服やアクセサリーを脱ぎ捨て始めた。

 

〈「私のおじいちゃんは、雷に打たれて死んだの」〉

 

取り乱す彩夏をなだめるために逢衣も服を脱ぎ去り、下着姿で抱きしめた。

 

〈「私たちには絶対に落ちないから」〉

 

雷は落ちなかった。しかし、電流が血管を伝って体を焼き尽くしてしまうかのような、激しい恋がはじまる予兆だったのかもしれない。

 

旅行から帰ってきて初めて二人で会ったとき、彩夏はテレビでよく見るツインテール姿のままやってきた。猫目の吊り上がりがより一層強調されたその髪型は、彩夏のトレードマークであり、彼女によく似合っていた。その頃の彩夏は、長年身を置いてきた芸能界での活動が増え、多忙スケジュールをこなしていたはずだった。でも、何とかして時間を捻出していたのだ。逢衣と、会うために。

 

ある日、逢衣は「彩夏に別れたいと言われた」と彩夏の恋人が憔悴しているらしいと聞いた。彩夏と恋人はお似合いの二人でうまくいっているように見えた。別れたいと言っている理由を聞こうかどうしようかと迷いながらも、逢衣は彩夏の部屋を訪れることにした。

 

彩夏は満面の笑みで逢衣を迎え、ご機嫌で手調理を振舞ってくれた。いつか逢衣が来る時のために練習までしていたという料理は、店でしか食べられないような本格的なものでとてもおいしかった。
逢衣は「別れ話をしているんだってね」と単刀直入に切り出した。彩夏は驚きつつも、「好きな人ができたから」と言葉少なげだ。しかし、話題を変えた方が良いと感じた逢衣が「恋人と結婚するかもしれない」と話したとたん、彩夏の様子がおかしくなった。別の部屋に移った彩夏はベッドに突っ伏し、泣いているようだった。どうしたのだろうと心配し近づくと、真剣なまなざしでこちらを見つめ、突然、唇を唇で塞がれた。

 

〈「私は逢衣を友達なんて思ったことなかった、最初からずっと好きだった」〉

 

友人だと思っていた彩夏からの告白を受け止めきれず、逢衣は逃げるように部屋を飛び出した。最初から、ずっと、好きだった?

 

けれど、逢衣が彩夏に対して、友人である証拠のように自身の結婚式の招待状を持って訪れたあの日。逢衣は何でもなかった顔をして彩夏のもとを去ることができなかった。逢衣も彩夏に惹かれている自分自身のことを、もう誤魔化すことができなくなっていた。

 

二人が恋に落ちてしまったのは、二人自身も予想だにしないことだった。どちらも今まで女性を好きになったことはなかった。互いに上手くいっている恋人もいた。過ごした時間の端々に好意は生まれていたけれど、でも、それだけじゃ足りない。
あなたの声が、あなたの姿が、あなたという存在だけが。こんなにも心と身体を掻き乱し、傍にいるだけで体がびりびりと震えて化学変化が起こる。こんな相手は互いにしか存在しえないと気づいてしまった。

 

しかし、二人の恋には越えなければいけない壁が無数にあった。まずは「女性」を好きになってしまった自分を認めるということ。自分自身と相手の心を、勇気をもって受け入れること。その上で、自分と同じ構造を持つ女性の身体を愛すること。知っているけれど、知らないことばかりだった。男性との行為では感じることのなかった嫌悪感が、心の底から湧いてくるのを感じずにはいられない。「好き」なのに、触れられないし、直視できない場所がある。自分自身と、目の前にいる愛しいひとの心と身体の両方を、認め受けいれること。男性との恋では自然にできていたことができない、苛立ちとジレンマに押し潰されそうになる。

 

周囲の人も傷つけた。二人のかつての恋人、彩夏が所属する芸能事務所の人々、家族。二人が打ち明けるほどに、周囲の人々は混乱し、怒りとなった感情の矛先は二人に向けられ、嫉妬、嫌悪、憎悪、あらゆる感情を浴びせられるのを避けることはできない。離れることを選択せざるえない状況にまで陥ってしまったときもあった。

 

けれど、繋いだ手を放しかけたとき、それでもと繋ぎ直したのは、二人が互いにとっての運命のひとだったから。性別も、どんな過去を背負っていても、いま現在がどんな姿であっても関係ない。いま、目の前にいるあなたを、ただ愛しいと思う気持ちが溢れて止まなかったから。あまりにも激しく惹かれあい、けれど同時に二人でいると日向にいるような。逢衣と彩夏、二人にしか分かち合えない気持ちが生まれて消えることはなかった。

 

こんな恋を経験したいだなんて、軽々しく口にすることすら許されない気がする。それほどまでに二人の恋は真っ直ぐで、その真っ直ぐさは、周囲の人を傷つけ、互いを傷つけあうことだってある。
二人のあいだに生まれたのは、純度の高すぎる「愛」だけかもしれない。でも、そんな愛にたどり着ける組み合わせは、世界じゅう探したって二人でしかありえない。

 

〈「神様!お騒がせしております!」〉

 

神様の前でこんな風に永遠を誓う二人のことを思うと、なぜだか涙が溢れてくる。二人の真っ直ぐすぎる愛は、世界を少し美しくしてしまうくらいの、ひたむきさに満ちている。そんな二人のことを「バカだなぁ」なんて思いながら、いとおしく見守ってしまうのは、私だけではないと思うのだ。

 

『生のみ生のままで』集英社
綿矢りさ/著

この記事を書いた人

横田かおり

-yokota-kaori-

本の森セルバBRANCH岡山店

1986年、岡山県生まれ。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。

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