「新しい生活様式」になって解けたひとつの謎

吉村博光 HONZレビュアー

月の砂漠をさばさばと』新潮社
北村薫/著

 

 

私は、ひっきりなしに本を買っているのに、本棚は一つしか持ってない。そして、棚には常に余裕がある。少し前に考え事で脳みそが一杯になってしまい、肩こりや頭痛に次々と襲われたことがあった。それ以来私は、本棚も脳みそと同じように、余裕をもたせるようにしているのである。

 

『月の砂漠をさばさばと』は、そんな私の本棚に長らく居続けている本の一つである。なぜ私は、この本を捨てられずにいるのだろう。その理由を話すには、まずは本書がどういう本なのか知ってもらう必要がある。

 

9歳のさきちゃんと作家のお母さんは二人暮し。毎日を、とても大事に、楽しく積み重ねています。お母さんはふと思います。いつか大きくなった時、今日のことを思い出すかな──。どんな時もあなたの味方、といってくれる眼差しに見守られてすごす幸福。かつて自分が通った道をすこやかに歩いてくる娘と、共に生きる喜び、切なさ。やさしく美しいイラストで贈る、少女とお母さんの12の物語。  ~本書「表4」より

 

実在の母娘を描いたものではなく、フィクションである。まるで絵本のような物語だ。それをなんと男性作家が書いている。北村薫らしいともいえるが、何年か前に初めて読んだとき私は「男なのに、どうしてこんな作品を書けるのか」と不思議でならなかった。人の親として歳を重ねれば、いずれその理由に思い当たるのだろうか。その謎を解きたい。

 

時は流れ、当時、保育園に通っていた娘は小学5年生になった。生まれたばかりの息子も1年生だ。いま私は、経済活動から逃れ、彼らとともに家で過ごすことが役目になっている。学校が再開すると、一人残された部屋で、本棚に手を伸ばし寂しさを紛らわせている。そんなある日、この本のパワーをあらためて思い知ることになった。

 

本書で描かれた成分が、私と娘、私と息子、それぞれの関係の中にも存在していると気づいたのだ。思わず「わかる、わかる」と呟いてしまう。著者は“お母さんとお子さんで生活のチームを作っている”と友達のつながりに近づくような気がする、という。私にも、それが芽生えつつあるのだろうか。本書の終わりに、著者は執筆動機をこう書いている。

 

自分のいつか歩いた道を通って来る友達の、哀しみやおびえや喜びを見つめる目と見つめられる小さなさきちゃんを書いてみたいと思いました。  ~本書より

 

性別に関係なく、子供の頃に抱く感情だ。男性作家がそれを描きたくなることは、全く不思議なことではないのだ。それを最も鮮やかに描くための設定として、母娘の二人暮しを選んだということなのだろう。さきちゃんの視点で紡がれた物語には、おーなり由子の絵が花を添えている。まさに、職人芸のスペシャルタッグである。

 

一緒に過ごす時間が増えたことで、私と子供たちとの間に友達成分が増えてきたのだろう。縦<親子>のつながりだけで長時間一緒にいるのは、本当に息が詰まる。最近、一緒にトランプやUNOや人生ゲームで遊んでいると、子供たちから「もう、パパは大人げないなぁ」とあきれられるようになった。

 

お風呂からあがり、雑魚寝での雑談タイムを経て、就寝するのがわが家の日課である。一方、さきちゃんは、作家のお母さんから寝る前にお話を聞くのを楽しみにしている。プロから直接お話を聞けるなんて、船の上で刺身を食べるようでなんとも贅沢だ。本書の1話目は、寝る前にお母さんが話してくれた「くまの名前」の話である。

 

暴れん坊のくまさんが、新井さんちに連れて来られて「あらいぐま」になってしまう話である。翌朝のさきちゃんとお母さんのやりとりが秀逸だ。「あらいぐま」の話をきいて子供の心に起きた波紋と、それを感じ取って見事に打ち消したお母さんの対応、そして二人の間にある確固とした信頼の絆が読者の心に温かい灯をともす。

 

他にも、日常的な「聞きまちがい」の面白さにさきちゃんが気づく話や、先生との間に二人だけの秘密ができて「恥ずかしいようなわくわくするような気持ち」になる話、お母さんがさばの味噌煮を作りながら鼻歌を唄う話など、全部で12話。少し意識を向けると日常の中に見出すことができる、幸福の源泉を描いている。

 

そのなかで、私にとって懐かしかったのは「善行賞のリボン」という話だ。私と娘は、彼女が1年生の頃、夕方よく散歩していた。一緒に前を向いて歩いていると、話される機会を待っていた話が口をついて出てくる。そんな話を娘から聞くのを楽しみにしていたのである。そのときに、善行のリボンを貯めるような遊びをやっていた。

 

最近わが家では、寝る前に息子が「今日は絶対眠れそうにない」と叫ぶのがお約束になっている。寝た後に何が起きるか、怖くて仕方がないという。「10時を過ぎても起きている人っているのかな?」と毎晩きいてくる。「おびえ」とたたかう彼を、家族みんな、かつての自分をみるような気持ちで愛おしく見守る毎日だ。

 

娘も息子も「哀しみ」や「おびえ」や「喜び」を経験しながら、一歩一歩、成長している。私は、卒業後25年間ガーッと一つの方向に向かってきた船から降りて、幸せのアンテナというか触角というかを四方に伸ばしながら、新たな年輪を刻みつつある。それもまた等しく、作家に描かれても何の不思議もない、人間の営為そのものなのだと思う。

 

『月の砂漠をさばさばと』新潮社
北村薫/著

この記事を書いた人

吉村博光

-yoshimura-hiromitsu-

HONZレビュアー

出版取次トーハン就職後、海外事業部勤務。オンライン書店e-honの立ち上げに参加。その後、ほんをうえるプロジェクトの初期メンバーとなり、本屋さんの仕掛け販売や「AI書店員ミームさん」などの販促活動を企画した。一方でWeb書評やテレビ出演などで、多くの本を紹介してきた。50歳を機に退職し今は無職。2児の父で介護中。趣味は競馬と読書。そんな日常と地続きの本をご紹介していきたい。


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