腸チフスのクラスターを発生させた料理人の「感染症ノンフィクション」

金杉由美 図書室司書

『病魔という悪の物語』筑摩書房
金森修/著

 

 

昨年来、感染症をテーマにした文学作品が再読再評価されることが多くなった。
コロナ禍がなかったら2006年に刊行されたこのノンフィクションがいま話題になることもなかっただろうし、手に取る機会もなかっただろう。これを縁と言っていいものか。

 

メアリー・マローンは20世紀初めのアメリカで雇われ料理人をしていた。
アイルランドからの移民で、その事件が発覚した当時37歳。
家族や親戚は既に亡くなり、天涯孤独の身の上。恋人はいたけれど未婚。
いろんな家を渡り歩いて働いてきたが、雇い主からの評価も上々。
作る料理はデザートにいたるまでとても美味しいと評判だった。
彼女がやがて極悪人として知られるようになるまでは。

 

メアリーは腸チフスの無症状キャリアだった。
本人は健康そのものなのだが、体内に保菌していて間歇的にその菌を排出していたのだ。
料理を作ることを生業としていたことが仇になった。
それまで働いてきたいくつもの職場でクラスターが発生していたことがわかり、彼女はイーストリバーに浮かぶ島に隔離される。
無自覚のうち食事に菌を混入してしまい結果的に雇い主たちをチフスに罹患させていた、文字通りの毒婦、それがメアリーだった。
「チフスのメアリー」の誕生だ。

 

結果的に彼女は老いて死ぬまで隔離され続けた。
一度は食べ物を扱う職に就かないことを条件に解放されたのだが、偽名を使って病院で賄い婦として働き、クラスターが起きたことでそれが露見して再び隔離されたのだ。

 

なんで?!なんで、また料理人になっちゃったか?!
しかも病院で。そりゃあバレるだろ!

 

知らず知らずのうちにチフスに感染していた彼女だって病気の被害者だ。
幸か不幸か無症状だったために菌をばらまいてしまっただけ。
でも危険性が判明した後も料理を作り続けたことは、犯罪に等しい。
彼女がどういう人間だったのか詳しい記録は残っていないけれど、最初に隔離された際に弁護士を雇い裁判をおこして自由を得ようと努力したところをみると、実務能力もあり、頭の回転も悪くなかったに違いない。
真面目で働き者で自分の仕事に誇りをもっている女性だったはず。
けれども、貧しい移民で身寄りもなく、独りで生きていかなければならなかった。
だから、ついつい慣れ親しんだ仕事に舞い戻ってしまったのだろう。
そうは言っても選りによって病院の賄い婦とは…
もうちょっと他の職場はなかったのか…
いくらなんでも大胆すぎるだろメアリー…

 

本書はメアリーの不幸な人生を追うと同時に、邪悪な毒婦の代名詞「チフスのメアリー」が都市伝説として伝播していったありさまを描いている。本人が亡くなった後も伝説は生きていて、一世紀後の現在まで話題に上るのだ。
自粛警察やコロナ差別が問題になっている今、誰にだって現代の「チフスのメアリー」になる可能性がある。ひょっとしたらもうなりかけているのかも知れない。
この本を読んでおけば心の準備ができる、というわけじゃないけれど、

 

こちらもおすすめ。

『流行感冒』(『小僧の神様』岩波文庫に併録)
岩波書店 志賀直哉/著

 

この短篇も、こういう事態にならなかったら思い出さなかっただろう。
スペイン風邪の流行で感染を恐れた志賀直哉が家人に「人ごみに出かけてはいけない!芝居小屋なんてもってのほか!ダメ絶対!ソーシャルディスタンス!」と注意していたのに女中が嘘をついて芝居に行ったことが判明し「けしからん!解雇する!」と怒り心頭に発したものの自分が感染しちゃって皆にうつしてしまい雇った看護婦まで倒れて大ピンチ!っていう時に女中が懸命に看病してくれて何とか危機を乗り越えたので女中に感謝…という話。
自分でも作中で言ってるけど、文豪ってば現金すぎる。

 

『病魔という悪の物語』筑摩書房
金森修/著

この記事を書いた人

金杉由美

-kanasugi-yumi-

図書室司書

都内の私立高校図書室で司書として勤務中。 図書室で購入した本のPOPを書いていたら、先生に「売れている本屋さんみたいですね!」と言われたけど、前職は売れない本屋の文芸書担当だったことは秘密。 本屋を辞めたら新刊なんか読まないで持ってる本だけ読み返して老後を過ごそう、と思っていたのに、気がついたらまた新刊を読むのに追われている。

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