限りなく深い闇と、それでも眩しい世界と。あなたの海を、私も受け取りました

横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店

『海をあげる』筑摩書房
上間陽子/著

 

 

沖縄の夜はきっと、暗く濃く深いのだろう。
漆黒の空にまたたく星はさんざめくように光り輝き、寄せては返す波の音色は聴くものの負の感情までも受け入れ流していく。
精霊たちは闇のなか、のびのびと手足を伸ばし、深々と呼吸をするだろう。太古から変わらずにある魔力や魔法がここでは今も大きな力をもっている。
その一方で、この場所には絶望の涙と悲劇の血が流れ続けている。
奪われてきた歴史、破壊された自然。ひとびとの叫びは受け入れられず、“お上”の都合でかそけき声は、いとも容易くかき消される。やり場のない怒りは止められない暴力へと姿を変え、終わらない負の連鎖は弱き存在へと牙を向く。

 

『海をあげる』は、沖縄で生まれ暮らす著者がそこに住まうひとびとの声を、透明で冷静な視点をもって、時には怒りを孕んだ感情そのままに、言葉をつくして紡いだ一冊だ。

 

沖縄にはびこる闇。米軍基地があるという特殊な環境は、ひとびとの生活に暗い影を落とす。軍機が飛び立つたびに揺れる家屋。繰り返される米兵による犯罪や事件。
住民の反対も虚しく投入された土砂は、青く美しい海を赤に染める。
まるで、世界中の負の感情が寄り集まって形をなしたものが、この場所へと流れ着いたような不条理さが、海を自然を奪っていく。

 

ひとびとの生活のすぐ隣にも、闇はぱかりと口を開けている。
自分の身体を差し出すことでしか生きていけない、また逃げ出すこともできない少女たちの小さな声がある。言葉にすることすらできない絶望のはてにいた彼女たちは、心に大きな傷を負っている。
暴力にさらされてきた子どもは、手をあげることを躊躇わない大人になる。暴力は女性へ、そして子どもに容赦なく振るわれる。暴力と貧困はセットだ。地獄から抜け出すためには、とにかくお金が必要なのだ。家族、友人、恋人――本来なら守ってくれるはずの存在から身体を弄ばれた少女は、また自らの身体を差し出すことしか生き抜く術を知らない。嘆きを言葉にしたとして、助けてくれるひとはどこにもいなかった。心を機能させないままでないと、生きていくことはあまりに辛い。そうしていないと、「死」へとたやすく踏み出してしまう。
心を破壊された少女が空虚な瞳で見つめる世界は、夜と地続きの深い深い闇だ。

 

けれど、沖縄の闇と相反するように、太陽のもとで営まれるひとびとの暮らしは、私が知る陽の光よりも眩しく強く、生命力に満ちたものだった。

 

著者の娘は食いしん坊なのだという。
赤ん坊の頃、静かになった娘の姿を探すと部屋の片隅でたくさんの料理の写真が載った本をじっと眺めていた。食べることは、生きること。食べ物に興味があるということは、生きることにも、きっと積極的になれる。こんな些細な情景に心はほどけ、日常のささいな出来事のなかにあるしあわせが、いつもよりも色濃く感じられる気がした。
絶食することで抗議の意思を示すハンガーストライキをする友人に、娘は「ムーチー」を作って差し入れようという。何も食べられないのだと伝えると、「ごはん食べないと、大きくなれないさ!」と、とたんにぷりぷり怒り出した。本心は、ムーチーを食べたかったのだと母は知っている。けれど、“大人の事情”など何も知らない子どもの突拍子もない行動こそが、張り詰めた場の空気を乱し、動かすことだってある。
子どもを誘拐する怖い大人がいるから簡単についていってはだめと諭す母に、「お菓子はなぁに」と娘は問い、そこに魅力を感じるや否や「風花は決めた。かーちゃん、風花は誘拐される」ときっぱりと言い放つ。お菓子につられる単純さは純粋さとほぼイコールだから頭は痛いが、どうやったって笑みがこぼれてしまうエピソードだ。

 

子どもはいつだって、大人の考えや常識をはるかに超えたところから、世界へと大胆不敵に飛び込んでいく。思うようには動かず、してほしいようには全くならず、素直で実直な自らの声にだけ従いながら、世界の景色の様々を知っていく。
私にも、こんな風に輝かしい日々があっただろうか。覚えてはいないけれど、きっとあったのだろう。限りなく確信に近い想いが不思議と去来する。

 

大人は子どものもつ生命力には決して適わない。子どもの言動に振り回され、真面目に向きあれば向き合うほど心身ともに疲弊し、体力気力ともに奪われていくものだ。でも、すやすやと眠る娘の安らかな寝息が波の音と同じく、外の世界での悪意に侵された著者の心を慰めるように。屈託のない笑顔を大人になっても持ち続けられるよう、守っていかなければと決意をするように。いつか大人になったとき、愛する人とともに歩む道を選べるよう、いまを愛で満たしてあげられるのは親の役目なのだと知るように。
母が子どもに向けるまなざしは、こんなにも愛に満ち満ちているものだという真実を前に、心が大きく揺さぶられるのを感じずにはいられなかった。

 

今も昔もずっと、沖縄という土地は特別な場所なのだろう。
強い光を放つ太陽のもとに営むひとびとは、唄や踊りをこよなく愛し、大らかで明るく、熱き炎を心に宿している。精霊たちへと捧げる祈りはめぐり巡ってひとびとを助け、守り続けてきた歴史がきっとあるのだろう。

 

強い光と同じ分だけ存在する深い闇のなか、祈りも願いも届かぬ場所で、心を閉じることを選択したひとびとがいる。抜け出すことすら諦めて、ただただ闇のなかを彷徨い、ある日崖から落っこちるようにして生涯を閉じる。無念だっただろう。ただ、無条件に抱きしめられたかっただろう。絶望を抱えたまま生涯を終えた、たくさんのいのちを思うと心がぎゅうと搾り上げられ、流れる涙をとめることができない。彼女たちの流せなかった涙が私の身体を通して流れ出てきたのかと思うほど、あとからあとから涙があふれてやまない。
私は、この痛みを決して忘れてはいけないのだろう。

 

本書に描かれているのは、強い光と巨大な闇に飲み込まれそうになりながらも、いのちを抱いて歩むひとびとの姿だ。安寧と暴力。生まれてきたいのちと、奪われていったいのち。美しい海と澄みわたる空のもと、相反する二つの物事によってバランスを保ちながら、ゆらゆら揺れる大地の上で私たちは生かされている。
だから受け入れよう、だからすべてを許そうだなんて、重い現実を前にとうてい口にすることはできない。けれど、すべての子どもはきっと“望まれて”生まれてきたのだろうと思う。でなければ、説明のつかないことは多すぎるし、希望はなさすぎるではないか。

 

この本を読んでくださる方に、私は私の絶望を託しました

 

たしかに、私は本書のなかに絶望を見た。ひとびとが経験した出来事の想像を超える悲惨さと、少女たちが抱えるには重すぎる闇をこの身体をもって体感した。
遠い海のこちら側で、ささやかに暮らすちっぽけな私は、あまりに無力であまりに何も知らなさすぎた。

 

だから、と言ってもいいだろうか。
だからこそ、と言い切ってもいいだろうか。
私は、いまここでちいさな声をあげなくてはならないような気がしている。

 

私は、“あなた”の声を受け取りました。
嘆きやかなしみ、怒りがあなたの心を壊したように、私の心にも真っ黒な土砂のように闇が流れ込みました。
でも、子どもの頃の“あなた”、今まさに未来へと羽ばたいていこうとしている“あなた”の幸福な姿も、私は見ることができたように思います。
慈しまれ、守られ、すやすやと眠るあなたのすぐそばには、きっと愛がありました。その愛は、あなたが生まれてきたときに、神さまから授けられた一番大切な宝物でした。

 

私は、あなたの物語を抱えてこれからも生きていきます。
もしもあなたに出会ったときに、悲しむあなたにためらうことなく愛を差し出せるようなひとでいます。

 

あなたの絶望を受け取ることは同時に、あなたの愛を受け取ることだった。

 

『海をあげる』筑摩書房
上間陽子/著

この記事を書いた人

横田かおり

-yokota-kaori-

本の森セルバBRANCH岡山店

1986年、岡山県生まれの水がめ座。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。1万円選書サービス「ブックカルテ」参画中です。本の声、きっとあなたに届けます。

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