父親への憧憬の物語『はつ恋』

内田るん 詩人・イベントオーガナイザー

『はつ恋』新潮文庫
ツルゲーネフ/著 神西清/訳

 

「あなたの初恋の話を聞かせてください」、もしそう訊かれたらなんと答えようか。

 

母親や幼馴染、アニメや漫画のキャラクター。夢中になった相手は数限りないが、実在の異性で初めて心奪われたのは誰だったろうか……。

 

私はわりと恋多き女なので、「この恋こそが初めての、真実の恋だ!」と、常におめでたい上書きしてしまう。やはり、自分の中の未知の感覚、今までの世界を壊すものこそ「恋」と呼びたい。世間が喧伝するようなラブは全部大ウソだ。恋が経済を回す、みたいな冗談はコレを読んでからにしてくれ。

 

恋とは、愛のために、信じてきたものを全て捨てるということなのだ!
(と個人的には思っております。)

 

ツルゲーネフの「はつ恋」、といえばゲーテの「若きウェルテルの悩み」と並んで古典恋愛小説の代名詞的なイメージ。読む前は、純真な主人公が熱烈な恋に身を焦がすロマンチックな物語、と想像していた。というのも梶原一騎の「愛と誠」の中にこの本が出てくるので、きっと岩清水くん(「愛と誠」に出てくる、「君のためなら死ねる」のセリフで有名な情熱的なキャラクター)みたいな誠実な青年が主人公なのだろう、と勝手に思ってしまっていた。

 

しかし実際に読んでみると、まったく違った。なんだこのフニャフニャした色ボケのガキンチョは。こいつが主人公かよ。なぜ有名な作品って、こうも持ってた印象と違うんだ? 思うにこれは、青春時代に読んだ思い入れがある作品を、高尚で清らかな内容だと都合よく記憶をすり替えている人が多いせいではないだろうか? だとしたら「お前の記憶する“美しい青春”など、その実態は誰が聞いても黒歴史だ!」と耳元で叫んでやりたい。だってまさにこの本は黒歴史日記!全若者共感必至の恥と苦悩の記録だ!

 

ツルゲーネフの半自伝的作品であるこの小説は、ティーネイジャーだったことがある者なら身に覚えのあるだろう生々しい妄想と下心、自己愛にドップリ浸った憂愁が事細かく、しかしサラっと簡潔に描写してあり、恋物語というよりは「総括」に近い。ていうか、もう毎ページ、赤裸々過ぎて爆笑してしまう。電車では読めないぐらいだ。

 

たとえば、この一節。

 

“わたしは、ただぼんやりと空想にふけって、人目のない寂しい場所ばかり求めていた。とりわけ気に入ったのは、あの崩れ落ちた温室だった。わたしはよく、そこの高い塀をよじ登って、腰を下ろし、いつまでもずっと座っていた。その自分の姿が、いかにも不幸で孤独で侘しげな一個の若者といった格好なので、しまいには、我と我が身がいじらしくなってくるのだった。そして、そうした悲哀に満ちた感覚が、なんとも言えず嬉しかったのだ。わたしはそれに夢中になっていたのだ!…”

 

……ぶっちゃけ過ぎだよ!「恋をしている自分が好き」という愉悦を、ここまで直球に説明しちゃうツルゲーネフの心の強さと客観性には脱帽した(これほど偉大な作家をつかまえて脱帽って物言いも図々しいが、本当に「頭が良い人!」って思わされてしまう。才能豊かとかそういうのとは別の、人間らしい感情を否定しない理性の在り方が、「理性ってこういう風に使うんですね…!」という気持ちにさせられた)。

 

この小説を読んで私は、こんな歳になってもまだ自分が「恋をしている」という「物語」に淡い夢を持っていたのだと気づかされた。でもその滑稽さを、ツルゲーネフはよく知っていて、良いも悪いもなく受け入れてくれている。

 

この優しい理性は、“自分は特別な存在だと思い込みたい”という、ごくありふれた人間らしい気持ちを「中二病」だのとバカにして笑う現代の世にこそ必要なものではないだろうか?

 

若者の痛々しい情熱を受け止めてくれる一方、作者は「恋」の残酷さ、辛辣さも語っている。「はつ恋」という作品の中で、主人公はヒーローでなくワキ役だ。彼は美しく魅惑的なヒロインのジナイーダの周りに群がる崇拝者の1人に過ぎない。「自分は誰かの特別ではない」という現実を際立たせる一連の出来事に、主人公は打ちのめされていく。

 

この小説は、「主人公が友人らに自分の初恋の話をするために書いた長いメモを読み上げている」という形式を取っている。なので(実質的に)同一人物である〈筆者〉→〈語り部である主人公〉→〈初恋をした当時の16歳の主人公〉という二重のメタ視点で書かれていて、主観が手前から奥へと行き来する。恋を知った16歳の自分から、憧れていた父が亡くなった頃の自分、大学を出てジナイーダの消息を知った時の自分、そして40を過ぎ、髪に白いものが混じるようになった現在の自分。主人公は、すでにこの世にいない父親の年齢に近づき、追い越し、その歳になって思い返す少年時代の自分は、理解しがたい存在だった我が父にとってどんな息子であっただろうか、と自らを見つめているようだ。

 

マルグリット・デュラスの自伝小説「愛人」も、ほとんど母親と兄のことばかり書いてあるように、10代の恋愛を語るとき、そこには親や家族の存在が強く浮かび上がる。「はつ恋」も、ヒロインのジナイーダを愛する話というよりも、父親への憧憬の物語だ。いかに自分が父親を慕っていたか、父親の眼はどこを向いていたのか、その視線の先に自分がいないことをどれほど苦しんだか……。子供にとっては最初に夢中で愛を乞う対象である親が、どうして自分を愛さなかったのか。自分は愛されるべき息子ではなかっただろうか?

 

ジナイーダへの思慕を通して主人公はその疑問と向き合い、そして赦しの道を探っていく。計り知れない情熱を抱えたまま、私たちは何も残さず死んでいく。祈ることしかできない。祈りを通して、私たちはようやく、愛を知る。

 

肉親への盲愛から脱却するための通過儀礼、それこそが「初恋」なのかもしれない。

 


『はつ恋』新潮文庫
ツルゲーネフ/著 神西清/訳

この記事を書いた人

内田るん

-uchida-run-

詩人・イベントオーガナイザー

1982年 東京生まれ神戸育ち。イベントオーガナイザー、詩人、フェミニスト、ミュージシャンなどいろんな肩書きのある無職。20代を無力無善寺、素人の乱、など高円寺の磁場の強い店での修行(バイト)に費やし、今は草取り・断捨離・遺品整理業を個人で請け負っている。文筆の仕事も。


・Twitter:@lovelove_kikaku

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