第3回「バー鍵」と「スペア・キー」
甘糟りり子『バブル、盆に返らず』

 年下の友人や若い仕事仲間にバブル時代のことをよく聞かれます。
「深夜のタクシーが争奪戦で、一万円札を頭上に掲げて拾ってたって本当ですか?」
「女性は、夜遊びに行く時、一切財布に手をかけなかったんでしょう?」
「ワンカットの撮影のためにスタッフ全員で海外に行ってたって、まさかですよね?」
 そうそう、それ全部ほんとのこと、なんて答えながら、なんだか私も不思議な気持ちになります。お伽話をしているのではないか、そんな錯覚を起こすのです。
 この際だから、記憶にあることを書いておこうと思います。日本にあんな時代は二度と来ないでしょうから。明日は今日よりもっとわくわくすることが待ち構えているに違いない、何の根拠もなくそう信じでいた、あの頃のあの雰囲気がなつかしい。
ナウい昔話するんで、イチゴを落としたシャンペンでも飲みながら読んでもらえたらうれしい、みたいな〜。

 

 

 レストランやバーに詳しい女の子は、便利がられても男ウケはよくない。それはバブル時代だろうが平成だろうが令和だろうが、きっと同じ。時代は変われど、男性はデートの相手には「初めての経験をさせたい」と思うものらしい。だから、デートの舞台となるレストランには相手が行ったことのない店を選ぼうとする。悲しいかな、あの頃、私はそのほとんどを制覇している厄介者だった。

 

 男性の心理は百も承知だけれど、当時の私は、「新しいお店を知りたい、使いこなしたい」という欲望に歯止めが利かなかった。理由はわからない。ほとんど食欲に近いものだった気がする。モテるよりも、店に詳しくなりたかった。というより、店に詳しいなんて些細なことでビビらない人とつき合いたかった。自分が熱中しているというのに些細だなんて、矛盾しているのだけれど。

 

 麻布十番に「バー鍵」という店があった。雑居ビルの2階にあって、カウンターだけで8席くらいの小さな空間である。一見どうということのない普通のバーだけれど、奥のほうに入口とは別の扉があった。そこから向こうはカードキーを差し込んで入るシステムで、その第二の扉を開けると、「ヌード」という別の店になる。こちらは会員制で、カードキーは会員証なのだ。入会金は三万円とたいしたことはないが、会員の紹介が必要だった。白地に思わせぶりな字体で「nude」と書いてあるカードキーを、私はなぜか二枚所有していた。

 

 この「ヌード」がかなりあやしげな空間だった。

 

 それぞれのテーブルは少し透けた生地のカーテンで仕切られ、覆われている。個室ではないが、隣の席に誰がいるかはわからない。カーテンの中には低いテーブルと低いソファ。店内は暗く、テーブルに置かれたロウソクだけが辺りを照らしている。薄暗い空間にうっすら透けたテントのようなものがずらりと並んでいる、といったらいいだろうか。

 

 カーテンの向こうの隣の会話は丸聞こえだった。でも姿は見えない。そのせいか油断する人が多いようで、声をひそめることもなく、女性を口説いている場面がよくあった。

 

「この後、いいよね? 全日空に部屋取ってあるんだけど」
「部屋? スイートよね?」
「似たようなもんだよ」

 

 店自体が下心を後押しするような作りだから、凝ったセリフは必要ないようだった。たまに、唇を吸いあっている音や衣ずれが聞こえてきたりもする。少したつとカーテンの向こうの影が動いて、男女が店を出ていく。それを見届ける度に、ああ東京の夜だなあと思った。

 

 ここでよく頼んだのは、コカ・ブトンというお酒だった。名前からもわかるように(いや、わからないか……)、コカインの原料であるコカの葉から抽出されたリキュール。もちろん、お酒にする過程で麻薬成分は取り除かれてはいる。ある時期から輸入禁止になったが、流通しているものを飲むことは違法ではなく、ここのメニューにもコカ・ブトンがあった。甘ったるい薬草の味わいも、成り立ちも名前も、この空間に似合う気がした。

 

 「ヌード」は雑誌の取材は受けていなかったはずだ。今のようにツイッターもインスタグラムもフェイスブックもなかったけれど、奇妙なシステム&エロティックな雰囲気のバーの存在はすぐに口コミで広まっていった。

 

「麻布十番の『バー鍵』って行ったことある?」
 遊び人たちによく聞かれ、その度に私は得意げにこう答えた。
「うん。カードキーも持ってるよ」

 

 で、私が案内役になって飲みに行く。しかし、私が主導権ならぬカードキーを握っているせいか、二人きりで訪れても口説いてくる男性はいなかった。誰一人として。それどころか、ここ一番のデートだからとカードキーの貸し出しを頼まれることもあった。店のスタッフに確認したら許可が出たので、何人かに貸した。会員制といっても、一枚のカードキーの所有以外に何の特典も式典も束縛もない。会員同士が集うこともない。

 

 こんな私でもまれにデートの誘いがある。そう、店に詳しいなんてことにビビらない、器の大きな男性だ。私の話す最新の東京事情におもしろがって耳を傾けてくれ、それでもちゃんと自分でデートのお店を選んでくれる、そういう人。情けない話だけれど、店に詳しすぎる女はこれだけでぐっときてしまう。その店選びがダサいと高飛車に文句いうくせにね。

 

 その日は、過不足のないビストロで食事をした。カッコつけすぎていなくて、かといって合コン集団が幅を利かせているようなところでもなく、センスのいい店選びだった(我ながらエラソー)。もう一軒、飲みに行こうということになって、私はつい間違ったサービス精神を出してしまった。

 

 「さっき話した業界人がみんな話題にしてるとこ、行ってみる? 麻布十番なんだけど」

 

 というわけで、二人で「バー鍵」に向かった。普通っぽいカウンターの前を通り過ぎ、奥の扉に白いカードキーを刺す。もちろん刺したのは私だ。謎の扉を開けると、人の影だけがうっすらわかるカーテンが並び、すれすれのやり取りをする男女の声が聞こえてくる。
私を見つけたお店のスタッフがやってきて、にこやかに挨拶をされた。

 

 「甘糟さん、昨日はどうも。いつもありがとうございます」

 

 空いているテーブルに案内され、席に着くやいなや、器の大きいはずの男性はいらだった口調でいった。

 

 「ねえ、昨日もここにいたの? こんな場所でいっつも何してんの?」
 いっつも、という箇所を強調していわれてしまった。しゃれでコカ・ブトンなんて頼める空気でもなく、私は今更ながら猫を被って、カンパリソーダだかなんだかを頼んだのだけれど、時すでに遅し。会話は弾まず、帰り際もキス一つなく夜を終えたのだった。

 

 向こうのお怒りはよくわかる。でも、私はなんの後悔もない。これからは馬鹿正直なスタッフのいないバーに行こうと思っただけだ。

 

 「スペア・キー」というバーがあったのは麻布台。東京でもっとも古いピザハウス「ニコラス」の隣である。「ヌード」が閉店したすぐ後に開業したと記憶している。こちらも鍵が会員証代わりだが、カードキーではなく錠前のタイプである。すぐ近くの狸穴坂の古いマンションに住んでいた頃、よくここを使った。

 

 会員だけが所有する鍵で入店するというシステムだけは同じでも、スペア・キーはヌードとは真逆の空間だった。

 

 ドアの前には正々堂々と会員全員の名札が掲げられている。店内には個室もカーテンもなく、どの席からも店全体が見渡せる。マスターが選び抜いたワインと気の利いたおつまみを楽しむ店だった。会員は友人同士も多く、ばったり会ったグループ同士で合流したこともよくあった。友達の元婚約者に遭遇した時も気まずい空気にはならず、なつかしい話に花が咲いた。夜の醍醐味は下心のやりとりだけではないことを「スペア・キー」で教えてもらった。

 

 店の左側はパターの練習コーナーだった。マスターが無類のゴルフ好きなのだ。ハイヒールのまま、パターの練習をしたこともある。

 

 狸穴坂の部屋を引き払ってから足が遠のき、風の頼りに「スペア・キー」が閉店したらしいと聞いた。「ニコラス」ももうないし、六本木はかつての輝きを失ってしまった。こんな原稿を書いている私は今や海の近くで暮らしている。ネオンにはなんの未練もない。会員制のバーの鍵を持つことなんてもうないだろう。とここまで書いたら、友人からLINEがきた。

 

ーー今、リリちゃんのこと話してたよ

 

 何枚かの写真も送られてきた。楽しそうに飲んでいる友人たち、赤ワインが注がれた大きなグラス、なんとなく見覚えのある中年男性の写真。後ろの壁には「SPARE KEY」とあった。見覚えのある男性は「スペア・キー」のマスターだったのだ。別の場所で「スペア・キー」を再開したそうだ。

 

 私はすぐにメッセージを送った。

 

――新しい鍵、私の分ももらっておいて!

 

 人はそんなに変わらない。

 

撮影/白倉利恵
イラスト/久木田知子

バブル、盆に返らず

甘糟りり子(あまかす・りりこ)

玉川大学文学部英米文学科卒業後、DCアパレル会社勤務を経て執筆活動をスタート。『東京のレストラン 目的別逆引き事典』(光文社)など、グルメ、ファッション、クルマ、音楽、映画など、時代の最先端のエッセンスをちりばめた作品が話題に。また、『中年前夜』『エストロゲン』(ともに小学館)など、都会に生きる大人の女性のリアリティを描いた小説でも注目を集める。近年は、妊娠・出産をさまざまな視点で描いた短編小説集『産む、産まない、産めない』『産まなくても、産めなくても』が大きな反響を呼ぶ。近著は『鎌倉の家』(河出書房新社)、『鎌倉だから、おいしい。』(集英社)。
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イラスト / 久木田知子
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