【第2回】クリスマスのイブイブはオグリキャップ
甘糟りり子『バブル、盆に返らず』

 年下の友人や若い仕事仲間にバブル時代のことをよく聞かれます。
「深夜のタクシーが争奪戦で、一万円札を頭上に掲げて拾ってたって本当ですか?」
「女性は、夜遊びに行く時、一切財布に手をかけなかったんでしょう?」
「ワンカットの撮影のためにスタッフ全員で海外に行ってたって、まさかですよね?」
 そうそう、それ全部ほんとのこと、なんて答えながら、なんだか私も不思議な気持ちになります。お伽話をしているのではないか、そんな錯覚を起こすのです。
 この際だから、記憶にあることを書いておこうと思います。日本にあんな時代は二度と来ないでしょうから。明日は今日よりもっとわくわくすることが待ち構えているに違いない、何の根拠もなくそう信じでいた、あの頃のあの雰囲気がなつかしい。
ナウい昔話するんで、イチゴを落としたシャンペンでも飲みながら読んでもらえたらうれしい、みたいな〜。

 

写真:日刊スポーツ/アフロ

 

 1990年12月23日、流行り始めたいい方をすればクリスマスのイブイブ、中山競馬場に第35回有馬記念を見にいった。大人気だった競走馬「オグリキャップ」の引退レースだ。

 

 あの頃、女の子をデートに誘うには、話題になっているレストランのテーブルを予約するなんてのは当たり前。マドンナの来日公演のアリーナ席とか、 ADコロシアムやギーガーバーのレセプションパーティとか、いかに貴重なエンターテイメントの体験を提供できるかが重要であった。そりゃあいろんなコネのある電通の男性がモテていたわけだ。(今は知らないけれど)。

 

 調子に乗りまくっていた二十代の私はありきたりなレストランの誘いは鼻で笑っていた。

 

「西麻布のさくらの予約が取れたんだけど、行かない?」
「ああ、あそこ、先週行ったばっかり。大したことないよ。客層ももはやイマイチだし~」

 

 みたいな会話を平気でするヤな女だった。しかし、当時の男子には、ハードルを上げれば上げるほど食いついてくる猛者たちが少なくはなかった。その手の男子は、こちらがつい誘いに乗りたくなるめずらしいアクテビティを差し出してくるのがうまい。最近アプローチをしてくる男子に、真夜中の長電話の途中で聞かれた。

 

「ねえ、馬って好き?」
「馬刺しのこと?」
「じゃなくて、競馬の馬」
「全然。何にもわからない」
「でも、オグリキャップって名前は聞いたことあるでしょ?」

 

 彼はオグリキャップがいかに愛すべき馬なのかを説き、けれど最近はすっかり衰えて勝てないレースが続いていて、ついに引退が決まったのだと教えてくれた。最後に出走するレースが12月23日にあるという。

 

「イブイブだしさ、みんなで行こうって盛り上がってるんだ。ほら、この間飲んだやつらと。りり子ちゃんも一緒に行こうよ」

 

 今となってはさっぱり理由がわからないのだが、その時は「競馬とクリスマス」がすてきな組み合わせのような気がした。まんまとね。落差があるものほど、「オッシャレー」だと思い込んでいた。おそらく、その男の子の競馬の知識も覚えたての付け焼き刃だったはず。

 

 男女数人で中山競馬場に行った。競馬場の周りはものすごい人だかりだった。ヤニ臭いおじさんたちが溜まっているものだと思っていたが、私たちのような若者のグループもそこここにいて、原色のワンピースにロングヘアの前髪をたてた女性もちらほら見かけた。漫画家の故・中尊寺ゆつこさんが名付けた「おやじギャル」だ。それまでおじさんの専売特許だった分野に生き生きと進出した若い女性たちのことである。

 

 建物は清潔で、ところどころにスケールの大きさを感じた。何もかもが鮮やかに想像を裏切られた。場内に入るとものすごい人口密集度で、私と彼は自然と手を繋いだ。そうしないとはぐれてしまいそうだったから。

 

 コースでは馬がのんびり歩いていた。こんな狭いところでレースをするのかと驚いたら、そこはパドックといって、その日に走る馬が姿を見せに来る場所らしい。ここで調子を見て予想をし、馬券を買うという。知らないことだらけでおもしろかった。

 

 馬券は自分で買った。大切なことなのでもう一度書く。馬券は自分で買った。

 

 あの頃、デートの費用は男性が払うという暗黙の了解があった。今の感覚にしたらおかしいのだけれど、昔はそもそも女性が働いて稼ぐ場面が圧倒的に少なかった。だから、デートに誘うのは男性の役目、支払いは誘った方が持つ。これが当時のスタンダード。競馬場の馬券売り場の前でも、私は何も考えず片方の手は男の子と手を繋いだまま、もう片方の手はポケットに手を突っ込んだままだった。つまり、財布に手をかけようなんて気持ちはさらっさらなかった。すると、彼がいった。

 

「あのさ、馬券を買ってあげたいんだけど、こればっかりは自分でお金を出した方が楽しいと思うよ」
「え? そうなの?」
「うん。身銭じゃないと盛り上がんないんじゃないかな」

 

 一応納得した私はポケットから手を出して、バッグの底にある財布を探した。単と副の説明を受け、パドックの様子をおさらいして、自分で選んで馬券を買った。確か一万円ほど使ったと思う。

 

 ポケットの中で馬券を握りしめながら、いよいよ本物のレース場に入った。とにかくものすごい人だった。客席はもはや乗車率120 %の満員電車状態で、私は彼の手をほどき、両手でバッグを抱えた。そうしないとバッグの取っ手が引きちぎれそうだったのだ。バッグはルイ・ヴィトンの巾着型(これ、みーんな持ってたよね)。女性が書類も入るようなトートバッグを持つのはもう少し先のことで、主流は巾着型だった。この馬券が当たったら、最近人気のMCMの巾着型を買おうかなあなどと都合よく考えていた。

 

 はぐれないように、バッグを抱えた私を後ろから抱きつくような形で場所を確保してくれた。それでも人の波に飲まれて離れ離れになりそうだった。

 

 歓声や叫び声がわんわんと響き、耳がおかしくなった。彼が耳元で解説してくれたのだけれど、怒号の中では何を言っているのか全くわからなかった。気がつかないうちにレースが始まっていた。顔や身体の形が変わってしまうかと思うほどもみくちゃにされ、恐ろしいほどの歓声が無数に重なった。群衆の隙間から一瞬だけ何頭もの馬が駆け抜けていくのが見えた。その後、場内じゅうの人という人が、気が触れたように叫んでいた。泣いている人もたくさんいた。私はバッグを確保するのに精一杯で、レースの結果なんて気にする余裕はなかった。どよめきはなかなか収まらない。彼もその友達も興奮して叫び続けていた。私は熱狂の瞬間に立ち会えた喜びを噛みしめた。何の瞬間だかさっぱりわかっていないのにね。

 

 人が散らばり始めるまで、ずいぶんと時間がかった。私たちもなんとかみんなとはぐれずに競馬場内のカフェテリアにたどり着いた。やっとまともに息が吸えた気がした。ほっとしたら勝敗が気になったので、彼にたずねた。

 

「で、結局、どの馬が勝ったの?」

 

 彼も彼の友達も唖然とした表情で私を見た。周りの見知らぬおじさんが数人、私を睨み付けた。

 

 カフェテリアには何台ものモニターがあって、先ほどのレースの様子が映し出されていた。天才騎手・武豊が騎乗したオグリキャップは中盤まで中頃の位置をキープしていたが、第4コーナーあたりに先頭に躍り出て、最終の直線で振り切り、奇跡的な逆転優勝を遂げた。今でも語り継がれる歴史的なレースである。

 

 周囲とはかなり遅れてそれを知った私は、一心不乱に走るオグリキャップの様子が美しくて、思わず泣いてしまった。彼があきれた口調でいった。

 

「今頃になって、泣く?」

 

 馬券はいくらにもならず、MCMのバッグは買えなかったし、彼とは恋人同士になることはなかった。競馬場に行ったのも馬券を買ったのもこの時だけで、単と副がどういうものだったかさっぱり忘れてしまったけれど、あの熱狂の瞬間の感触は今でも鮮やかに覚えている。

 

イラスト/久木田知子

バブル、盆に返らず

甘糟りり子(あまかす・りりこ)

玉川大学文学部英米文学科卒業後、DCアパレル会社勤務を経て執筆活動をスタート。『東京のレストラン 目的別逆引き事典』(光文社)など、グルメ、ファッション、クルマ、音楽、映画など、時代の最先端のエッセンスをちりばめた作品が話題に。また、『中年前夜』『エストロゲン』(ともに小学館)など、都会に生きる大人の女性のリアリティを描いた小説でも注目を集める。近年は、妊娠・出産をさまざまな視点で描いた短編小説集『産む、産まない、産めない』『産まなくても、産めなくても』が大きな反響を呼ぶ。近著は『鎌倉の家』(河出書房新社)、『鎌倉だから、おいしい。』(集英社)。
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イラスト / 久木田知子
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