第5回 「東京いい店やれる店」
甘糟りり子『バブル、盆に返らず』

ryomiyagi

2020/09/10

 年下の友人や若い仕事仲間にバブル時代のことをよく聞かれます。
「深夜のタクシーが争奪戦で、一万円札を頭上に掲げて拾ってたって本当ですか?」
「女性は、夜遊びに行く時、一切財布に手をかけなかったんでしょう?」
「ワンカットの撮影のためにスタッフ全員で海外に行ってたって、まさかですよね?」
 そうそう、それ全部ほんとのこと、なんて答えながら、なんだか私も不思議な気持ちになります。お伽話をしているのではないか、そんな錯覚を起こすのです。
 この際だから、記憶にあることを書いておこうと思います。日本にあんな時代は二度と来ないでしょうから。明日は今日よりもっとわくわくすることが待ち構えているに違いない、何の根拠もなくそう信じでいた、あの頃のあの雰囲気がなつかしい。
ナウい昔話するんで、イチゴを落としたシャンペンでも飲みながら読んでもらえたらうれしい、みたいな〜。

 

「東京いい店やれる店」は、★の数のかわりに脚を開いた女性のイラストの数で「やれる度」を表すという斬新な表現も話題になりました。お店に掲載許可を取るのも大変だったようです。結果、15万部の大ベストセラーとなりました。
(ホイチョイ・プロダクションズ作品 1994年 小学館刊)
撮影/池田千尋(光文社写真室)

 

 かつて「レインマン」と呼ばれていた時期がある。ネットもスマホもなかった頃だ。

 

 私は流行りのレストランのオープン年月日と電話番号と席数をすべて暗記していた。頭の中であらゆるお店のオープン年月日が年表になっていて、いつでもそれを取り出せた。つくづく思うのだけれど、どうしてあのエネルギーと記憶力を受験勉強に生かせなかったのだろうか。

 

 そんなレインマンに、親しい編集者を通じてホイチョイ・プロダクションズからお呼びがかかった。ホイチョイで画期的なレストランガイドを作っていて、その手伝いをして欲しいという。そう、1994年夏に刊行された『東京いい店やれる店』である。

 

 ある金曜の夜、カマロ280 Zのハンドルを握り、迷いに迷って世田谷区羽根木にあるホイチョイの事務所に行った。まだカーナビなどという便利な道具は一般的ではなく、港区渋谷区千代田区を主な活動の場としていた私にとって世田谷区の住宅街はほとんど異国だった。

 

 ホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫さんは『私をスキーに連れてって』や『彼女が水着に着替えたら』などの映画監督として、さかのぼれば『見栄講座』の著作などで知られている。さぞかしおしゃれな事務所に違いないと期待していたが、当時は小さな平家の小屋で、室内にはそこここに資料や本が山積み、ものにあふれて殺伐したところだった。初対面の馬場さんは、当時の主流だったイタリア系のダブルブレステッドのスーツではなく、カチッとしたアメリカン・トラッドのブレザーに赤いタイを合わせていた。

 

 馬場さんいわく、味は関係ない、レストランの価値は女性を口説けるかどうかの一点のみ。そんな視点に基づき、「やれるかやれないか」をミシュランのように星で評価するという。

 

 いくつかの「やれる店」の候補に行ってレポートをするというのが私の任務だった。すでに二十軒近くのレストラン&バーがリストアップしてあり、経費はいくら使ってもいいという。なんとおいしい仕事だろう! もちろん私は快諾して、しばし雑談をした後、事務所を出ようとした。ドアに手をかけたところで、馬場さんがいった。

 

「あ、そうそう、締め切りは一週間後だから」

 

 一番大切なことは最後につけ加えるように伝える。コロンボ刑事のスタイルだ。

 

 果たして私は一晩に二~三軒の店を回らなければならなくなった。二軒目や三軒目がバーならまだマシなのだけれど、一晩に三回、レストランに行かなければならない夜もあった。

 

 ミーハーな友達に付き合ってもらった。一軒目では単品でいくつかの皿を注文し、お客ウォッチングで盛り上がった。芸能人をはじめとした著名人が来ることでも知られたところだった。この日の夜は長いとわかってはいたけれど、店の雰囲気とシャンパンに酔って、つい普通に食べてしまった。

 

 二軒目はできたばかりの日本料理のダイニング。有名料理人の名を冠している。和食だから軽いだろうとたかをくくっていたら、注文はコースのみだった。それもけっこうなボリュームである。さっきの店でちゃんと食べてしまった友達は、途中からまったく箸が進まなくなった。料理人に申し訳なくなったが、開店直後の混乱のせいか、スタッフは私たちのことなんか気に留めていなくて、安心した。これがいつもだったらサーヴィスが悪いだのホスピタリティが足りないだの何だの、ぶーぶー文句をいっていただろう。

 

 ダイニングを出ると、友達はいった。

 

「もう水も入らない。悪いけど、ここで帰る」

 

 私も同じ状態である。解散した後、アイロンのような携帯電話を使ってホイチョイに電話をかける。締め切りは翌日だった。弱音を吐く私に馬場さんはいった。

 

「じゃあ、次の店は何も食べなくていいから、ロケーション調査ですね。表通りから店までの小道でキス・ポイントがあるかどうかを確認してください。それと、内装。同窓会の会場を探してるんですけど、かなんかいって、店内も見てきてもらえます?」

 

 電話を切って、私は一人、店に向かった。腹ごなしと自分にいい聞かせ表通りと店を何度も行き来して、もしデートだったらと想像力を総動員した。私はキスを仕掛けられる側ではないのだろうかという疑問はない。そんな雑念を持っていたら、レインマンにはならないのだ。

 

 その頃、東京の夜の主役はディスコからクラブへ変わる時期だった。

 

 ディスコとクラブは何がどう違うのか、令和となった今でも話題に上るテーマだが、当時、私はディスコとクラブの違いをこんなふうに定義していた。店内共通の貨幣がお札なのがディスコで小さなコインなのがクラブ、ドレスコードを設けているのがディスコいないのがクラブ、夕食に代わるぐらいのフードメニューがあるのがディスコないのがクラブ、ダンスフロアが仕切られているのがディスコいないのがクラブ。

 

 青山近辺のクラブの地図を作るために、馬場さんと一緒に各店舗を回った。馬場さんは、みんなが着ていたアルマーニのコートではなく、紺色のダッフルコートを羽織っていた。

 

 目的のクラブは246通り沿いの地下にあった。今のAOビルの辺りだ。あの頃のクラブはバブル時代のディスコをあざ笑うかのように、内装に金をかけないのがかっこいいという風潮だった。そっけない空間にミラーボールと音楽だけ、というような。かかる音楽のセンスと客層が店の個性の大きな要素となった。そうなると、エッジィなクラブができて感度の高いおしゃれな人が集まる→噂を聞きつけて彼ら彼女らに憧れるミーハーな客が訪れる→なんか流行っているらしいと普通の人々が押し寄せて店の雰囲気がぶち壊しになる→感度の高い若者は別のクラブを探す、の繰り返しだった。あの店はトガった人たちが競うように最新ファッションをまとい、集まっていた。そんな中でのダッフルコートはかなりのインパクトだった。馬場さんが店内に入った途端、若者が何人かあわてて散らばっていった。恐らく、補導員が内偵に来たと勘違いしたのだと思う。

 

 あの頃、マスコミの働き方は今の感覚でいえばブラック企業もいいところだった。何しろ「24時間戦えますか」というフレーズが流行るぐらいである。マスコミに限らないかもしれないが、いかに自分が忙しいか、睡眠をとっていないかを自慢しあったものだ。今ともっとも違うのは、働いた分だけ賃金が支払わられたこと。そして、やりがいというものに何より価値のあるとみんなが信じていた。

 

『東京いい店やれる店』の刊行も差し迫ったある日、馬場さんから呼び出しがあった。その夜はデートの予定が入っていて、相手はまさに24時間戦っている働き盛りのビジネスマンだった。彼の海外出張が続いており、私たちが会うのは1ヶ月ぶり。そのことを馬場さんに伝えると、

 

「真夜中でも明け方でもいいから、デートが終わったら事務所に来てください」

 

 朝までにディスコの年表を作って欲しいという。レインマン魂に火がついた。

 

 久しぶりのデートを終え、羽根木のホイチョイ・プロダクションズに着いたのは、午前二時過ぎだった。灰色の顔をしてヨレヨレの格好をした男性たちが黙々と机に向かっている。鎖骨が見える黄色のミューゼ・ドゥ・ウジのブラウスに黒いパンタロンといういでたちの私は、どっかのノベルティのポロシャツを渡された。制限時間は約六時間。前髪を輪ゴムで止め、ダッサいポロシャツを着て、机に向かった。パソコンなんて高級品は持っていないから、コピー用紙に定規で線を引いて、年表を作った。眠いどころか、夜が深まるほど頭が冴えていった。

 

 あれは午前四時頃だっただろうか。編集部で原稿を待っている編集者から電話が入り、馬場さんが激しくやり合った。

 

「君は印刷所の犬か!」とかなんとかいっているので、恐らく締め切りのことであろう。私は作業に熱中するふりをしながら、聞き耳をたててみた。

 

 私なりの意訳をすれば、担当編集ともあろう人が、少しでもいいものを作ろうというこちらの情熱より、印刷所のスケジュールを大切にするのか、というのが馬場さんの主張だった。刊行予定の日付はとっくに過ぎていて、どう考えてもむちゃくちゃなことをいっているはずだが、私には馬場さんの言葉が正しいように聞こえた。ものづくりとはそういうことなのだと思った。

 

 ディスコの年表を作り終えたのはほとんど朝だった。机から顔を上げると、本やら資料やらが山積みになった殺伐とした空間が、どんなトレンディなオフィスよりかっこよく思えた。

 

 今の私は徹夜はできないし、編集者や印刷所にはへり下るし、締め切りには常に怯えている。だからこそ、あの明け方の馬場さんの言葉を時々思い出している。

バブル、盆に返らず

甘糟りり子(あまかす・りりこ)

玉川大学文学部英米文学科卒業後、DCアパレル会社勤務を経て執筆活動をスタート。『東京のレストラン 目的別逆引き事典』(光文社)など、グルメ、ファッション、クルマ、音楽、映画など、時代の最先端のエッセンスをちりばめた作品が話題に。また、『中年前夜』『エストロゲン』(ともに小学館)など、都会に生きる大人の女性のリアリティを描いた小説でも注目を集める。近年は、妊娠・出産をさまざまな視点で描いた短編小説集『産む、産まない、産めない』『産まなくても、産めなくても』が大きな反響を呼ぶ。近著は『鎌倉の家』(河出書房新社)、『鎌倉だから、おいしい。』(集英社)。
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イラスト / 久木田知子
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