akane
2020/09/24
akane
2020/09/24
先日、クルーザーで行われたパーティに参加した。
晴海埠頭から出港した船内ではルイナールが振舞われ、有名な日本料理店の仕出しがあって、バーカウンターでは鮨職人がせっせと寿司を握っていた。船は羽田空港に近づき、私たちはクルーザーのデッキで頭上を飛ぶ飛行機を見上げながら、シャンパーニュやワインを楽しんだ。
はなやかな集まりは久しぶりだったのに、私は早々に退屈してしまった。着飾った男女がにこやかな表情で探り合うような会話をしていて、なんだかバブルの頃によく見た景色だなあ、としみじみした。あの頃は、いったいいくつこんな夜があっただろうか。
飲むでもなくグラスを弄んでいると、友人が一人の女性を私のところに連れてきた。
「この方、リリちゃんが恩人なんだそうだよ」
若くもないが中年でもない、つまりまさに女盛りの美しい女性が深々と頭を下げた。胸の辺りまで伸びた髪はサラサラで、サンドベージュのワンピースがよく似合っている。しかし、まったく記憶にない。私は正直にいった。
「ごめんなさい。どこかでお会いしてましたっけ?」
私は、人の記号(名前や肩書き&経歴)は忘れやすく、その代わりに顔形はわりと記憶にとどめているはずだが、彼女の顔形はデータにはなかった。
「二十年以上も前に一度お会いしただけですから、仕方ないですよね。お目にかかったのは芝浦です」
「芝浦?」
「はい。『オー・バー』のオープニングで」
「オー・バー」のオープニングという単語で、私の記憶が一気によみがえった。ああ、あの時の! あの子か!
「オー・バー」とは「O, BAR2218」のこと。「インクスティック」の跡地にできた大箱ディスコだ。
寂れた倉庫街だった芝浦はバブルに突入するやいなや、時代に目をつけられ、1986年には「タンゴ」という運河沿いのレストランや「インクスティック芝浦ファクトリー」というライブハウスなどができて、「ウォーターフロント」と呼ばれ始めた。いまやシーズンスポーツ・サークルの学生が大きな顔をしている六本木なんかとは違う、エッジの効いた業界人の溜まり場として一気に熱を帯びたのだ。業界人とは、広告とか出版とか音楽とかファッションとか、その類いの人で、彼らがかっこいい種類の大人たちとしてもてはやされていた。なーんてわかったようなことを書いたけれど、「ウォーターフロント」という呼び方も、しょせんは空間プロデューサーがNYから見つけてきたものだったんだけどね。
そんな芝浦熱を決定的にしたのはかの「ゴールド」で、それはまた別に書くとして、走りだったのが「インクスティック芝浦ファクトリー」である。しかし、インクスティックも時代の荒波には勝てず3年後には閉店し、翌年の1990年その跡地にできたのが「オー・バー」という大箱のディスコだった。
オープニング・レセプションがあった夜、私は代理店の男の子たちと西麻布で飲んでいた。こちらもオープンしたばかりのおでん屋だったと記憶している。おでん屋といっても、あの頃よく見かけた「日本料理のジャンルですが、都会的におしゃれっぽく空間をプロデュースしてみました」といった店。つまり全然おしゃれじゃない。私たちの間では、この類は「いかにも系」なんて呼ばれていた。いかにも系でダントツ人気だったのは……などといちいち店の説明を挟むと、話がなかなか進まない。昔話って大変だなあ。
味のぼんやりしたおでんを食べていると、目上の業界人から携帯電話に電話があった。ちなみに、この頃はまだ「携帯電話」は通話代がバカ高くて、チャラチャラしている人(含、私)がこけおどしに使う道具だった。
「アマカスにこんなこと頼むのは舌を噛み切りたいぐらいみっともなくて悔しいんだけれど、今、芝浦の『オー・バー』のオープニング・レセプションに来てる。すごい人だし、招待状もないし、中に入れないん……」
言葉を遮って、私は答えた。
「わかりました。私も、この後そっちに行こうと思ってたんです。そこで待っててください」
すぐさま会計をしてもらい(支払いは代理店の誰かが済ませた。誰だったかは忘れた)、タクシーを拾った。西麻布の交差点はタクシー激戦区だが、まだ9時前だったので、わりとすぐに捕まった。
行こうと思っていた、というのは嘘。迷っていた。エッジィで最先端の空気が流れていたはずの芝浦がどんどんダサくなっていくのを見届けたいような、見たくないような気持ちだった。
しかし、すごい人だと聞き、俄然行く気になった。私も招待状なんか持っていなかったけれど、当時の私に入れないディスコはなかった。
三分も探せば誰かしらコネクションのある人が見つかる。タクシーの中から一、二本電話をして、「オー・バー」の入り口で私たちを出迎えてくれるように頼んだ。
人でごった返す入り口で、彼らは所在なく立っていた。スーツ姿のスタッフらしき人物に先ほど教わった名前を告げ、私たちは行列を横目に店内に入った。呪文かよ。私はこんな呪文をいくつも持っていた。
中はもっとごった返していて、熱気が渦巻いていた。芝浦もまだ捨てたもんじゃないのか、もう大衆のものになっちゃったのか、私は各フロアを回りながら自問自答し続けた。自分もれっきとした大衆だからこそ、大衆から抜け駆けしたくて仕方がなかったのだ。当時はそれに気がついていなかった。気がついていたら、恥ずかしさで私こそ舌を噛み切っていたかもしれない。
大勢で店内を練り歩いた。その間、誰かが若い女の子二人組に声をかけ、さらに大人数になり、時々はぐれたり再会したりしながら、さらに練り歩いた。
何階だったかは忘れてしまったが、あるフロアにカプセルマシンがあった。コインを入れるとカプセルが出てくる、ガチャガチャとか呼ばれる機械だ。カプセルの中身はキーホルダーでもおみくじでもなく、Tバックのショーツだった。壁には、見本のカラフルなTバックが大量に飾られていて、ないはずのお尻が見えそうなぐらいだった。
若い女の子の一人がいった。
「す、すごい…、こんな下着、はいたことないです」
もう一人もいった。
「男性にびっくりされちゃいそう」
私は上から目線で語った。
「あのねえ、私たち、たまに身体にぴったりした服を着るでしょう。そういう時、下着の線が出るのって超ダサいじゃん。だからTバックをはくの。Tバックなら、線が出ないでしょ。男に喜ばれたり引かれたりするためじゃないの」
「そうなんですか…」
二人はそういって、自分たちのヒップを気にし始めた。線が出ていないかどうか、確認したのだろう。
すると、おじさんたち(若い女の子からしたら、私が引き連れていた男子は全員おじさん)が、色めきたった。
「もしよかったら、買ってあげましょうか?」
女の子たちは顔を見合わせた。おじさんたちはにやにやしている。
私はまたもや出しゃばった。
「ダメダメ。こういうの、恋人でもない男の人に買わせるとロクなことないから。私が買ったげる」
別に私もTバックを買わせてロクでもない目にあった経験はないけれど、そんな言葉が口をついて出た。財布から五百円玉を取り出して、カプセルマシンに入れた。「いかにも系」の会計の時もタクシーを降りる時も、一切財布には手をかけなかったというのにね。出てきたのは薄暗い空間でもくっきりとわかる黄緑色のTバックだった。
クルーザーで再会したのは、そのうちの一人である。彼女は、その後、芝浦にもディスコにもいかなくなって、結婚して出産して、そして離婚したという。
「あの時、甘糟さんに買ってもらわなかったから、今頃私、○ニクロの下着はいてました」
「私も少しは役に立ったんだ。良かった」
私がその日はいていたのは、○ニクロのスポーツショーツだったけれど、そのことは黙っておいた。
私たちは再会を祝して、乾杯をした。船上からは芝浦の灯りがとても近くに見えた。
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