第9回 「家電 留守電 携帯電話」
甘糟りり子『バブル、盆に返らず』

ryomiyagi

2020/10/16

 年下の友人や若い仕事仲間にバブル時代のことをよく聞かれます。
「深夜のタクシーが争奪戦で、一万円札を頭上に掲げて拾ってたって本当ですか?」
「女性は、夜遊びに行く時、一切財布に手をかけなかったんでしょう?」
「ワンカットの撮影のためにスタッフ全員で海外に行ってたって、まさかですよね?」
 そうそう、それ全部ほんとのこと、なんて答えながら、なんだか私も不思議な気持ちになります。お伽話をしているのではないか、そんな錯覚を起こすのです。
 この際だから、記憶にあることを書いておこうと思います。日本にあんな時代は二度と来ないでしょうから。明日は今日よりもっとわくわくすることが待ち構えているに違いない、何の根拠もなくそう信じでいた、あの頃のあの雰囲気がなつかしい。
ナウい昔話するんで、イチゴを落としたシャンペンでも飲みながら読んでもらえたらうれしい、みたいな〜。

 

 先日、友人との別れ際に「たまには電話するね(LINEじゃなくて、との意)」といいながら、左手を握って左耳にあて、右手は胸の辺で人差し指をぐるぐる回す、というジャスチャーをしたら、いったんは向こうに行きかけた友人が戻ってきて、私の両手を自分の両手でしまいこんだ。
「ちょっと、今時その仕草ヤバいって」

 

 

 私が無意識にやったのは、もちろん黒電話のダイヤルを回す動作である。電話をかけるといったら、タップすることではなくダイヤルを回すこと。電話機とは文章を送るものではなく、話すための機械だった。

 

 かつて、恋愛のほとんどは電話から始まったといっても過言ではない。知り合うきっかけはいろいろだったにせよ、メールもLINEもメッセンジャーもインスタもない時代、人との距離を縮めてくれたのは電話だった。

 

 昭和の頃、家庭で使われていたのは黒電話である。黒い丸みを帯びた箱のようなものと受話器が、くるくる巻いたコードで繋がれていている。箱の正面のダイヤルには10個の穴が空いていて、それぞれ0から9までの数字がふってある。受話器をあげてから、ダイヤルを回すとジージーと音を立てながら右までいって、ガガガガと元の位置に戻ってから、次の数字を回す。電話番号一つをかけ終えるまで、今では信じられないくらいの時間がかかっていた。あの間に、もどかしさや期待、緊張に迷いに後悔、いろいろな感情を味わえた。

 

 電話は一家に一台が普通だった。親機子機などという発想はなく、自宅にかけたからといって話したい相手が出るとは限らない。残念ながらたいていは居間の主である母親、運が悪ければ父親というケースもあった。そして、昭和の父親は不機嫌と相場が決まっている。昔の男の子は目当ての子と連絡を取るだけで、今時の若者がプロポーズの時に感じるのに近いプレッシャーがあったはずだ。

 

 

 マユミ(仮名)のある日の出来事。
 黒電話がリーンリーンと音をたて、たまたまそばにいた父親が電話を取ってしまった。対応はぶっきらぼうな「はい」だけである。ちなみに、この頃は番号表示などというお節介な機能はないから、受ける側は誰からかかってきたのかわからない(だから、無言電話も多かった)。
 男の子はうわずる声でいった。
「あのう、私、サトウ(仮名)といいますが、 マユミ(仮名)さんはご在宅でしょうか?」
「どこのサトウ(仮名)くんかね?」
 男の子はますます焦る。
「世田谷区のサトウ(仮名)です」
「場所を答えてどうするっ。どこのどいつだと聞いているんだ」
「すみませんっ。私、 K大学シルバーキャノンボールテニスクラブのサトウ(仮名)と申します。マユミ(仮名)さんはお手すきでしょうか」
「もう休んでいるので、明日またかけ直しなさい」
がちゃっ。ピーピー。
 いやいや、お父さん、まだ夜の7時半なんですけど…。
 こんなエピソードはそこらじゅうに転がっていた。

 

 それぞれの部屋に電話が付くようになったのは1980年代後半。私が大学に入学してしばらくたった頃だ。
 ある日、親機と子機というユニットが我が家にもやってきた。二階にある自分の部屋に専用の子機を取り付けてもらった私は、六本木に出かけている夜以外はほとんど毎晩、友達やら彼氏やらと電話でおしゃべりをした。もう黒電話のコードを引っ張って寒い廊下に出てひそひそと話さなくてもいいと思うと、それだけで自由になった気がして、どうってことのない、たわいもない話でも楽しくて仕方がなかった。まだコードレスではないので、子機の取り付けられた壁に寄りかかりっぱなしでの長電話である。

 

 我が家の電話代が急激に上がった。ある日、父に「ちょっとそこに座りなさい」と改まっていわれ、先月の電話代が八万円を超えたことを告げられた。私の夜中の長電話が原因なことは明らかである。母に、どうして大学で毎日会っている友達と夜中に電話でまた話すのかと聞かれたけれど、自分でもわからなかった。ただ、楽しかったから。父と母にずいぶん注意をされたのに、私は自分の部屋に戻るや否や友達に電話をかけた。
「ちょっと聞いてよ、この間『ジパンゴ』で声かけてきた青学の男、エミコ(仮名)の元彼なんだって。知ってたあ?」
「へえ。エミコ(仮名)って、最近、ワーゲン・シロッコに乗ってるよね」
「ジパンゴ」というのは六本木「エリア」の上の階にあったディスコ。エミコ(仮名)というのはバイトでモデルやコンパニオンをやっている派手な女の子。他校の学生だが、ディスコでよく見かける。いかにもゴルフや BMWではなくてシロッコを選びそうなタイプなのだ。
 そんな脈絡のない噂話をしていたら、部屋のドアが音を立てて開いて、父が無表情で入ってきた。私の手から受話器を取り上げ、無言のまま電話を切って、いきなり私の右頬を叩いた。そして何も言わずに出ていった。何が起こったのかわからなくて驚いた。少したって叩かれた頬が痛いことに気がつき、涙が出てきた。その日は晩御飯の時間になっても部屋を出られず、夜中までずっとしゃくり上げていた。

 

 生まれて初めて車載電話を見たのもあの頃だ。友人の恋人の車に電話が付いていた。
 友人のクミコ(仮名)はかわいらしいタイプで、パリ志向のシックなファッションを好んでいた。彼女はある時、かなり年上の男性と付き合い始めた。離婚歴のある人で、不倫ではないけれど、両親が交際をよく思っていないと悩んでいた。悩むというより、それによって燃え上がっていたのだろう。今だからよくわかる。あの頃の、遊んでばかりの大学生はシリアスなドラマに飢えていたのだ。
 葬儀社を営んでいるというその男性はずいぶんと羽振りがいいようで、しょっちゅう私たちにまで食事をご馳走してくれた。「リストランテ山崎」、「イ・ピゼッリ」、「クランツ」、「トゥール・ダルジャン」etc.……いろんな高級店にぞろぞろとついていった。

 

 その日は、「キャンティ」に行くことになった。今はない六本木店である。彼は白いメルセデスに乗っていた。後部座席に私たち友人が乗り込むと、コンソールボックスについた車載電話でレストランに電話をかけた。車から電話が生えているのかと思った。
「あと10分くらいで着くから、よろしく。綺麗なお嬢さん方を三人ほど連れていくよ」
 電話を切ると二人で熱く見つめ合ってから、クミコ(仮名)は後ろを振り向いた。
「彼の仕事って、いつ連絡が入るかわからないでしょ? だから車にまで電話をつけているんですって」
 クミコ(仮名)はうっとりした口調だった。気持ちはよーくわかる。電話といったら家か公衆電話にしかなかったから、動く車の中から電話をかけるなんて信じられないドラマだった。後部座席でおとなしくしていた私でさえ、未来の中にワープしたような気になった。生まれた時からスマホが当たり前の人が聞いたら、笑っちゃうだろうけれど。というより何をいっているのか、わからないか。
 あの車載電話は単なる通信手段ではなくて、経済力や行動力の証であり、恋愛の場面でおおいに効く小道具だった。

 

 その後、電話はものすごい勢いで進化していった。
一家に一台ではなく、一部屋に一台が普通になって、学生でもそれぞれ専用の番号を持つようになった。同時に不在の場合は留守番電話のメッセージが応答するという技術革新もあった。
 部屋の留守番電話のメッセージは当時の若者にとって自分の個性をアピールする格好のアイテムだった。おどけた口調で自己紹介をする男の子や松田聖子もびっくりのカマトト口調でメッセージを促す女の子はたくさんいた。BGMに凝るのは当たり前。留守番電話の応答メッセージを毎週吹きかえる強者も現れた。彼の応答メッセージを聞けば、ディスコで今一番流行っている曲がすぐわかって便利だった。そのうち、何が流行っているのか曲名が知りたくてかけているのに、留守番電話にならずに本人が出るとがっかりしたりもした。

 

 私が自分の応答メッセージに使用していたのはAOR=アダルト・オリテンテッド・ロックである。ボビー・コールドウェルの「スペシャル・トゥー・ミー」とかドナルド・フェイゲンの「I.G.Y」とかリー・リトナーの「イズ・イット・ユー」とか。あの頃の自分が他人にどう見られたがっていたのか、手に取るようにわかる。ひと味違う、センスのいい大人な自分を演出したかったのだ。私ってディスコで騒いでいるだけじゃないから! と叫んでいた。結局はエミコ(仮名)のシロッコと同じ。
 ルパート・ホルムズの「him」を使った時は、しゃれたイントロを電話をかけてきた人に聞かせたくて、歌が始まるまで応答メッセージを吹き込まなかったら、長過ぎてめんどくさいと不評だった。
 今でも耳にこびりついて離れないのは友人のヤマモト君(仮名)の応答メッセージである。BGMはワンズと中山美穂の「世界中の誰よりきっと」。ミポリンの歌声に乗って、「ハーイ、ディスイズジミー、アイムノットインマイルーム、プリーズ、リーブユアメッセージ」とたどたどしい英語が流れるのだ。
 ヤマモト君(仮名)は帰国子女でもなんでもないし、ジミーなんてあだ名は付いていなかった。どうして英語なのかジミーなのか。きっと「インターナショナルなおれ」に見せたかったんだろう。でも、それなら何故洋楽でなくてミポリン? 今でも謎である。

 

 さて、電話は車よりファッションよりさらに色濃く時代を物語っていると思うのだけれど、生活様式を一変させたのはやっぱり携帯電話だった。
 私が携帯電話を持つようになったのは、ルパート・ホルムズのメッセージのすぐ後。留守番電話の対応はメッセージから携帯電話への転送になった。当時の携帯電話はパウンドケーキの箱みたいな長方形で、片手が持つのがやっとの大きさだった。長電話すると、腕が重くなるぐらい。
 今でこそ、老若男女みんなが携帯電話を手にしているけれど、当時の携帯電話はチャラさの象徴だった。いつでもどこでも連絡を取れるということは、ブイブイいわせるのと同義語とされていた。目先の欲望を強引に叶えることに、みんな引いていたのだろうか。
 得意がって使いまくっていたら、母が近所の人に「まさかリリコが携帯電話なんか持つようになるとはねえ」とため息交じりにこぼしていた。娘が背中に和彫でも入れちゃったかのような落ち込みようだった。
 ある文筆業の方は「携帯電話を使うような下品な人とは友達になれない」と書いていらして、後々その方と対談をすることになった時はすんごく緊張した。携帯電話を使いこなしているのは都会の浮き草の証だったのだ。まあ、都会の浮き草なんていい方も今はしないか……。

 

 あんなに世の中に悪者扱いされていたのに、携帯電話はあっという間に市民権を得て、今やライフラインの一つである。待ち合わせの駅ですれ違ったり、残業が終わらない恋人を車の中でずっと待っていたり、ああいう時間はもう二度とないのだ。私たちは便利と引き換えに何を差し出したのだろうか。

バブル、盆に返らず

甘糟りり子(あまかす・りりこ)

玉川大学文学部英米文学科卒業後、DCアパレル会社勤務を経て執筆活動をスタート。『東京のレストラン 目的別逆引き事典』(光文社)など、グルメ、ファッション、クルマ、音楽、映画など、時代の最先端のエッセンスをちりばめた作品が話題に。また、『中年前夜』『エストロゲン』(ともに小学館)など、都会に生きる大人の女性のリアリティを描いた小説でも注目を集める。近年は、妊娠・出産をさまざまな視点で描いた短編小説集『産む、産まない、産めない』『産まなくても、産めなくても』が大きな反響を呼ぶ。近著は『鎌倉の家』(河出書房新社)、『鎌倉だから、おいしい。』(集英社)。
Instagram : @ririkong
Twitter : @ririkong

イラスト / 久木田知子
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