BW_machida
2020/11/27
BW_machida
2020/11/27
もし時空を遡って一晩だけ昔に戻れるとしたら、アロワナが泳いでいたあのレストランで過ごしたい。地下に向かう長い階段を降りたところに池と水槽があって、水槽では高級熱帯魚が鱗を怪しげに輝かせながらゆったりと行き来していた。店の名を「笄櫻泉堂(こうがいおうせんどう)」という。
安藤忠雄建築で、外観はコンクリートの打ちっぱなし。レストランになる前はアパレル関係者の個人宅だった。
店に看板はなく、インターフォンを鳴らすとウェイターが入り口まで迎えに来るというシステム。コンクリートの壁に囲まれたドアの施錠が開かれると長い階段があって、それを降りた先にはライトアップされた件の巨大な水槽が現れる。
「すごい店に連れてってあげる」
“レストランじゃんけん“のライバルからそう誘われて、ここを訪れた。確かに、すごい。ものすごい。趣味がいいとか悪いとか、バブルっぽいとかぽくないとか、そんな価値基準が吹き飛ぶほどのインパクトだった。開業はすでにバブルが弾けた頃だけれど、街のあちこちにはバブルの残り香が漂っていた。
最初に通されたウエイティングバーでもあっけに取られた。三階までの吹き抜けで、地下にいるのに屋外にでもいるような開放感なのだ。ここが個人宅だったとは。無機的なコンクリートで囲まれた空間に、官能的な曲線の赤い革のソファという落差も斬新だった。
そこには青山通りでしか見かけないような人たちがたくさんいた。おしゃれだがファッション誌から抜け出したような派手さはなく、カジュアルでも高級感ばっちり。雑誌か何かのメディアで見かけたことがある気がするが、芸能人ではない(おそらく、芸能人を操る側にいるはず)。こんなすごい空間でもテンションは低く気だるそうに会話をする、そういう人たち。彼ら彼女らが、ここもそろそろ飽きたなあといった態度でくつろいでいる。内心は驚いていた私も、がんばって退屈そうに振る舞った。
レストランスペースは上階にあった。地下の一つ上だから一階のはずだが、吹き抜けとどの階からも見える巨大な水槽のおかげで、今いる場所が何階なのかわかりにくく、それもまた非日常感の演出になっていた。そちらにいる客たちもみんな「何者なんだろう?」と思わせるオーラを放っていた。
私は方々で「アロアナのいるすごい店に行った」と自慢しまくった。で、そこおいしいの? と聞かれても、アロワナと客層のインパクトが強すぎて料理のことは覚えていなかった。ナイフとフォークを使ったこと記憶はあるけれど、何料理だったのかさえ忘れている体たらく。もう一度、訪れて確かめなければ、と思った。
しかし、例のごとく、私は支払をしていない。いくらかかるのか、さっぱり見当もつかない。ネットなんてない時代だから、検索のしようもないのである。会計の際にちらっと見た伝票の金額も不確かだが、恐らくワインも入れて一人3〜4万円くらいだろうか。今でこそ高価なことが話題となって人気店に登り詰めるケースも見かけるけれど、東京にはまだミシュランガイドもザガットサーベイも上陸していない時期だ。一回の食事に3万円をかけるのはかなり勇気のいることだった。いや、勇気なんてカッコつけても仕方がない。そんな経済力がなかった。欲しい洋服やバッグや香水が次から次へと出てきてしまい、稼いだお金を家賃以外はほとんどそれらに使っていた。
でもでもどうしてももう一度「笄櫻泉堂」に行きたい私は、ない知恵を絞り、父と母を誘ってみた。二人とも私の親だけあって新しいレストランやおいしいものには関心が高い。ん? 私が似ただけか……。
帝国ホテルのティーラウンジで待ち合わせた。鎌倉から出てきた母は張り切って、植田いつ子さんのアトリエであつらえたワインレッドのスーツを着ている。私も両親と一緒の会食なので、自ずと保守的な格好になり、アルマーニのブラウス&パンツのセットアップだった。
「笄櫻泉堂」に向かうタクシーの中で、これから行くレストランがどんなにすごいかを両親に説いた。あまりに水槽とアロワナのことばかり話すので、母が怪訝な口調でいった。
「まさか、そのアロワナを食べるのかしら?」
「ちがうよー。もうお母さん、何にもわかってないんだから」
店に着き、長い階段の先の水槽を見た時は、さすがに父も母も驚いていた。家族三人でウエイティングバーに案内される。相変わらず周りは、青山通りでしか見かけないタイプの人たちばかりで、はっきりいって親子三人連れは浮いていた。身につけているファッションも要因ではあるけれど、それだけではない。父と母と娘という関係性がここでは異質に映るのだった。無邪気で未熟なお上りさんといったらいいだろうか。むき出しのコンクリートと一家団欒の相性はこの上なく悪かった。
周りなんか気にせず楽しめばいいのに、あの頃の私はどこにいっても「上客」を目指していた。正直にいえば、上客のつもりだった。だから周囲から浮いているという事実が心に引っかかって、のびのびと食事を楽しめなかった。バカみたい……。
デザートに供されたのはアイスクリームのバルサミコがけ。当時はまだバルサミコという調味料自体がめずらしかったが、それをアイスクリームにかける楽しみ方があるのはこの店で知った。そして何より、
「100年もののバルサミコでございます」
このフレーズにしびれた。私たち家族がここを訪れたのは20世紀の終わりに近い頃。私の記憶が確かなら(って、このフレーズも当時流行りましたねえ)1999年である。そこから100年前の日本といったら明治時代! 勝海舟が亡くなった年なのだ。そんな年に仕込まれたバルサミコをアイスクリームに惜しげもなくかけて味わった。案の定、アイスクリーム以外、何を食べたのかさっぱり覚えていない。アロワナにプラスされた記憶はお化粧室がやたらと豪華だったことぐらいだ。
帰りのタクシーの中で父はいった。
「どうってことはなかったなあ。だいたい料理を味わうのにあんな熱帯魚を持ち出すのは大げさすぎる」
結局、私はそれきり「笄櫻泉堂」に行く機会はなかった。ちなみに、この建物は後に「ハイパーメディアクリエーター」氏の事務所になったそうだ。
その後レストランは閉店して、建物も取り壊されたと聞いた。父は亡くなった。
もう一度あの店に行くのなら、何をやっているのかよくわからないカタカナの職業の男性とご一緒して、空疎な言葉遊びでもしたいと思っている。
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