BW_machida
2021/01/29
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2021/01/29
通称「水エム」とは「水曜日のM-カルロ」の略である。
M-カルロは’90年代銀座のど真ん中にあったディスコ。水曜日の夜は、流行りの曲ではなくディスコが一番輝いていた’70年代~’80年代のダンス・ナンバーだけがかかる。例えば、KC&ザ ・サンシャインバンドの「ザッツ・ザ・ウエイ」とかヒートウェーブの「ブギー・ナイツ」とかチャカ・カーンの「アイ・フィール・フォー・ユー」とか、もうあげたらきりがないけれど。
水エムに集まっていたのが通称「ヤンエグ」たちだった。ヤング・エグゼクティヴの略である。あの頃の流行語でダントツに恥ずかしいのはこれではないだろうか。有名企業に勤める二十代~三十代前半くらいまでの男性を指した。女性はいくら能力があっても努力をしても、企業という組織の中ではエグゼクティヴなんていう地位にたどり着けなかった時代だった。
まだ「合コン」というシステムは一般的ではなく、もちろんマッチングアプリなんてものはないので、ディスコは出会いの場として大いに活用されていた。ディスコで出会い、付き合って結婚した際には、結婚式で馴れ初めを「友人の紹介」とされるのが常であった。
客室乗務員(当時はスチュワーデスを略した「スッチー」もしくは「ワーデス」と呼ばれていましたね)をしていた友人のユカ(仮名)もそのコースを目指した。彼女には彼女なりの人生設計があった。目先のあぶく銭を持っている青年実業家(今でいうところの起業家でしょうか)や楽しいイベントに連れてってくれるマスコミ系ギョーカイ人とのあやふやな恋愛は、若いうちに多少はたしなんでおく。それは後々“思い出”として必要だから。しかし、人生を預けるのは、もう少し地に足のついた人を望んでいた。れっきとした企業の「ヤンエグ」というのが彼女の理想だった。彼女はそうした明確な目的意識を持って、水エムや「キング&クィーン」に通っていた。ディスコも婚活だったのだ。
ユカ(仮名)は思惑通り、三歳年上のヤンエグと知り合い、何度かデートをするようになる。あまりにも描いた筋書き通りになって驚いたけれど、まあ、手に入りそうな筋書きしか描かなかったともいえる。
「背が高くてかっこいいの。やさしいんだあ、レストランでは必ず椅子を引いてくれるし」
レストランで椅子を引いてくれることもやさしさの一つといえば一つだけれど、彼女が惹かれているのは彼の名刺に印刷された会社名によるところが大きかったと思う。世の中、結婚には「三高」の男性が良しとされていた時代である。身長、収入、学歴、の三つが高い男性のことだ。
そのヤンエグ氏、いや何度もヤンエグと書くのは恥ずかしいので、マモル(仮名)としておく。マモル(仮名)は天下の山一證券に勤務していた。山一は、野村、大和、日興と並んで「四大証券」と称されていた。
ユカ(仮名)は張り切った。デートを重ねて恋人の座を手に入れると、今度は周りを固め始めた。彼の友人と自分の友人を引き合わせるのである。私が会食にいった時にはもう「たまたま友達に誘われていった水エムでたまたまドリンクを取り違えて会話が始まった」というエピソードになっていた。ほとんど毎週行っていなかったっけ?
「来週も水エム、行くよね? 誰だったかのバースデーあるし」
気がきかない私がそういったら、軽く睨まれ、
「私、騒々しいところはあんまり好きじゃないの」
と返されてしまった。
マモル(仮名)や彼の友達は、バブルが弾けた日本経済を大げさに憂いながら、次々とクリスタルやデュクリュ・ボーカイユのボトルを開けていった。日本経済の後は、彼らの友人の話題。投資用にローンでマンションを買い、そのローンが払えなくなって消息不明になったその人は、どうやら首を吊ったらしいとかなんとか。家族に連絡をしても一切応じてくれないそうだ。
バブルは崩壊していたとはいえ、街にはまだ活気の絞りかすがたくさんあった。私には、消息不明の友人の話はどこか別の世界で起こっていることにように感じられた。
それからユカ(仮名)は水エムにも キング&クィーンにも一切行かなくなって、仕事が忙しくなった私とはたまにお茶を飲むぐらいの距離感になっていった。たまに会うとマモル(仮名)がなかなか煮え切らないことへの愚痴を聞かされた。この頃、次第に「合コン」という便利なシステムが世の中に認知されていく。マモル(仮名)が女子アナと合コンしたらしいという情報を得た時のユカ(仮名)はかなり焦っていた。客室乗務員という彼女の切り札を楽々と超えられた気がしたのだろう。
だから、広尾の「ルエル ド ドゥリエール」に呼び出され、めでたく結婚することになったと聞かされた時、私も勝手に達成感を抱いた。久しぶりに会う彼女は落ち着いた大人の女性になっていて、毎週ディスコに行っていた時とは別人だった。
「おめでとう!」
私がいうと、ユカ(仮名)はいたずらっぽくいった。
「リリちゃん、私の“思い出”は一生内緒だよ」
「わかってるって!」
何人かの派手な男性の顔が走馬灯のように思い浮かんだ。ふらふらとしている私と違って、ユカ(仮名)は着々と人生の駒を進めている。客室乗務員は辞めるとのことだった。せっかくキャリアを重ねてきたのにもったいないと思ったけれど、その言葉は仕舞い込んだ。生き方は人それぞれだ。
「披露宴とかまだ何にも決まっていないんだけど、リリちゃんには来て欲しいな。私はやっぱりホテルできちんとやりたいの」
世の中ではレストランでの披露宴が流行り始めていたけれど、ユカ(仮名)は結婚という人生最大のイベントに流行りを持ち込みたくないそうで、帝国ホテルがいいとのことだった。私はいった。
「じゃあ、炎のアイスクリーム楽しみにしてるね」
帝国ホテルでは、披露宴のクライマックスに場内が暗転して、スタッフが数人、新郎新婦の前でアイスクリームケーキを青く燃やす演出がある。暗がりの中で揺れる青い炎には奥ゆかしさと力強さがあって、憧れる女子も少なくなかった。
「二次会も定番ぽいとこがいいから、そしたら『マハラジャ』かなあ。スタッフの人紹介してよ」
「え? 知らないの? 『マハラジャ』、9月いっぱいで閉店だって。まあ、私も最後にいつ行ったのか思い出せないぐらいだけど」
「そうなんだ。ちょっとさびしいね」
ユカ(仮名)は言葉ではそういうものの、自分の幸せを味わうのに忙しそうで、それほど気に留めているようには思えなかった。私たちはふわふわのシフォンケーキを平らげ、甘い気持ちに包まれた。
山一證券廃業のニュースが新聞の一面を飾ったのは、それからほんの二ヶ月後だった。1997年11月24日のことだ。新聞受けからそれを取り出した時、印刷ミスかと思った。まだ一番大きなニュースはまずは朝刊の見出しで知る時代である。見出ししか読まなかった私は、朝日新聞やっちまったなあ、どうするんだろう? とのんきに考えていた。百年の歴史がある証券会社が倒産するなんて、ありえないことだったのだ。
しかし、テレビのニュース番組で経営陣の記者会見が流され、これは現実のことなのだとわかった。
「悪いのは私らであって、社員は悪くありませんから」
社長は号泣しながら、そういった。「飛ばし」と呼ばれる帳簿記載外の投資が何年にも渡ってあったとのことだったが、私にはさっぱり理解できなかった。理解できない分だけ、怖かった。マハラジャが無くなって、山一證券も無くなる。世の中で何が起こっているんだろうか。
ユカ(仮名)に連絡をしていいものかどうか、迷った。いつも連絡を取り合っている間柄ではないから、不幸の覗き見をしているようになってしまうかもしれない。
連絡手段は電話か手紙しかなかった。さんざ迷ってから、私がユカ(仮名)に電話をしたのは翌年になってからだった。私たちは、青山の「セラン」で待ち合わせた。
「結婚はね……、なくなった。マモル(仮名)が無職ではする自信がないって。私の親も暗に、あのニュースが婚約する前でよかった、みたいなこというし、向こうの親も結婚どころではないって感じになっちゃったし」
「そうなんだ…」
多分、そうなっているだろうと思った。マモル(仮名)とは別の山一証券社員の友人からは、親戚の結婚披露宴を「縁起が悪いから欠席してくれ」といわれたと聞いたりもしていた。
ユカ(仮名)は紅茶のカップを両手で抱えたままいった。
「でも、私はそれに逆らいたかったんだ。だって、マモル(仮名)のこと、好きだもん。別に山一證券の男じゃなくたって、好きになっちゃったんだから」
胸をこつんと叩かれた気がした。退職していたユカ(仮名)は、外資系のエアラインの面接を受けるという。
「そうよ。結婚するしないに関係なく、仕事はしていた方がいいよ」
なんと励ましていいのかわからなくて、私は無責任にいった。
「まだ、時々会ってるんだ。マモル(仮名)と。でも、お互い親には内緒なの。不倫でもないのに変だよね」
ユカ(仮名)は笑いながら、ちょっと泣いた。
撮影/甘糟りり子
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