第18回「横浜ベイブリッジ、レインボーブリッジ」
甘糟りり子『バブル、盆に返らず』

ryomiyagi

2021/03/12

 年下の友人や若い仕事仲間にバブル時代のことをよく聞かれます。
「深夜のタクシーが争奪戦で、一万円札を頭上に掲げて拾ってたって本当ですか?」
「女性は、夜遊びに行く時、一切財布に手をかけなかったんでしょう?」
「ワンカットの撮影のためにスタッフ全員で海外に行ってたって、まさかですよね?」
 そうそう、それ全部ほんとのこと、なんて答えながら、なんだか私も不思議な気持ちになります。お伽話をしているのではないか、そんな錯覚を起こすのです。
 この際だから、記憶にあることを書いておこうと思います。日本にあんな時代は二度と来ないでしょうから。明日は今日よりもっとわくわくすることが待ち構えているに違いない、何の根拠もなくそう信じでいた、あの頃のあの雰囲気がなつかしい。
ナウい昔話するんで、イチゴを落としたシャンペンでも飲みながら読んでもらえたらうれしい、みたいな〜。

 

 1989 年9月27日の夜、都心から車で横浜方面に向かっていた。目的地は「横浜ベイサイドクラブ」。キャメオのライブがあった。

 

 「横浜ベイサイドクラブ」はその前年に新横浜の倉庫街にできたディスコで、ダンスナンバーのヒット曲があるミュージシャンを海外から呼んでのライブが売りだった。私は車で出かけ、当時付き合っていた彼を千代田区の会社の近くでピックアップして、首都高速に乗った。その時に乗っていたのはカマロ280Zというアメリカ製のスポーツカーだった。色は白、屋根にはTバールーフが付いていた。燃費は3〜4km/L。札束をばら撒きながら走っていたようなものだ。

 

 キャメオはこれぞファンクという印象のバンドで、キラキラ度は低かったけれど、「ワード・アップ」をはじめ何曲かのヒットがあった。逆のいい方をすれば、私たちのように通ぶりたいミーハーにはうってつけの存在であった。「キング&クィーン」のフロアがアース・ウインド&ファイアやマイケル・フォーチュナティーで盛り上がると斜に構えて腕を組み、キャメオがかかると待ってましたという態度をとる。それなら「キング&クィーン」なんかに行かないでソウル専門のバーでもいけばいいのにね。中途半端にひねくれた私たちにとって、うってつけのイベントだった。

 

 横浜羽田線を目指した。まだ湾岸線なんてものはなかったし、フジテレビはお台場ではなく河田町にあった。午後8時過ぎ、平日の夜だというのに渋滞していた。事故でもあったのだろうか。開演時間に間に合わないかもしれないといらいらした。

 

 その日の昼間、横浜ベイブリッジという新しい道路が開通していたことを私たちは知らなかった。朝刊は一通り見たけれど、ベイブリッジ開通のニュースは気に留マラなかったのかもしれない。標識に従って車を走らせていると、見知らぬ道路に出てしまい、戸惑っていると、いきなりSF映画のような夜景が広がった。広がる海と港、港に停泊する船、そしてライトアップされた大きな橋。横浜じゅうのネオンが見渡せた。あんな光景、当時はまだSFの範疇だった。息をのんだ。車は橋に差し掛かると、海の上を横切った。

 

 

 キャメオのライブのことはあまり覚えていない。あまりにもベイブリッジとそこからの夜景のインパクトが強過ぎた。いつまでたっても開放感にあふれた美しい夜景が頭から離れなかった。

 

 あの頃、若者にとって車はいろいろな意味を持っていた。みんな車にあれこれ期待して振り回されていた。車はファッション・アイテムであって移動手段でもあって、思想もないことも含めて自分の姿勢を表すものであって背景でもあって、そしてデートの場所でもあった。ドライブはデートの定番だった。

 

 レインボーブリッジが開通したのは1993年8月26日。
 開通前から大きな話題だった。新しい時代の東京のシンボルのように受け止められた。

 

 当日、パウンドケーキの箱のような形の携帯電話にギョーカイ人の男性から電話がかかってきて「今日、新しい橋が開通するから有明までドライブに行かない?」と誘われた。ベイブリッジを一緒に渡った彼氏とはもう会わなくなっていた。その人は私以外にも三〜四人くらいに気がありそうなタイプだった。
 午後9時近くになって、ギョーカイ人はレンジローバーで迎えにきた。左側の助手席に乗り込んで、私はいった。

 

「イギリス車ならやっぱり右ハンドルだよね。外車ならなんでもかんでも左ハンドルっていうのダサいと思う」

 

 運転席の相手は苦笑いした。

 

「今、修理に出していて、これは代車なんだ。僕のは……、左ハンドル。イギリス車なのに悪かったね」

 

 あの頃の若者はこんな会話をしていたのである。

 

 天現寺から高速に乗り、有明ジャンクションでカーブを描くように右折すると、左奥にライトアップされた新しい橋が見えた。もちろん渋滞。目と鼻の先の橋にたどり着くまで30分近くかかったのではなかったっけ。橋の上も四車線とも車でびっしりと埋まっていた。のろのろとしか進まない。オープンカーの幌をあけているカップル、窓を全開にして拳を突き上げる男の子のグループ、中にはクラッカーを鳴らしている人までいた。反対車線ではハザードをつけた車が二台とその横に二人の男性。一人はぺこぺこと頭を下げている。前にあるホンダのセダンのリアは凹んでいて、後ろのBMWのナンバープレートが軽く歪んでいる。どうやら追突してしまったようだ。周囲の車からはいくつもからかいの歓声が飛んだ。パーティーみたいだった。

 

 

 お台場でいったん降りてその辺りを適当に流した。まだフジテレビはないし、サンセット・ビーチレストラン・ローもなく、お茶するところも皆無だった。帰りはもう一度高速に乗って六本木に出て、ピラミデビルの3階にあった「キケロ」に行った。二人でレインボーブリッジの景色の非日常さを絶賛して盛り上がっていたら、相手の携帯電話が無粋な音を立てた。彼は大きな掌で口を隠して、こそこそと話し始めた。しかし、私には次の言葉が聞こえてしまった。

 

「いや…、違う違う……、今新しい仕事相手と打ち合わせ中なんだよ。だから、あんまり話せない……、うん、わかった。後でちゃんと行くってば」

 

 そうですか、私は仕事相手ですか。その会話が終わらないうちに店を出てタクシーを拾った。平日だし、まだ終電前だったので、なんとか捕まった。

 

 新しくできた橋を開通したその日に渡る快感は積もり始めた新雪を滑るスキーヤーもしくはスノーボーダーのようなものだろうか、ちょっと違う気もするが、そういうことにしておこう。
 1994年12月21日、鶴見つばさ橋も、開通したその日に通った。この時は一人で行った。大黒埠頭と扇島を結ぶ橋である。場所柄なのか、レインボーブリッジの開通のように話題にはなっておらず、通過する車は少なかった。カマロはもう乗っていなくて、銀色のアルファロメオ164だった。

 

 麻布の古いマンションに住んでいた私は飯倉から首都高速に乗り、レインボーブリッジを通って、つばさ橋を渡り、ベイブリッジまで行って新山下で降りた。あてもなく山下公園や中華街を一人でドライブして、お茶も飲まずに帰ってきた。

 

 少しだけ大人になった気がした。

バブル、盆に返らず

甘糟りり子(あまかす・りりこ)

玉川大学文学部英米文学科卒業後、DCアパレル会社勤務を経て執筆活動をスタート。『東京のレストラン 目的別逆引き事典』(光文社)など、グルメ、ファッション、クルマ、音楽、映画など、時代の最先端のエッセンスをちりばめた作品が話題に。また、『中年前夜』『エストロゲン』(ともに小学館)など、都会に生きる大人の女性のリアリティを描いた小説でも注目を集める。近年は、妊娠・出産をさまざまな視点で描いた短編小説集『産む、産まない、産めない』『産まなくても、産めなくても』が大きな反響を呼ぶ。近著は『鎌倉の家』(河出書房新社)、『鎌倉だから、おいしい。』(集英社)。
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イラスト / 久木田知子
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