最終回 「昭和天皇が亡くなられた日」
甘糟りり子『バブル、盆に返らず』

ryomiyagi

2021/06/17

 年下の友人や若い仕事仲間にバブル時代のことをよく聞かれます。
「深夜のタクシーが争奪戦で、一万円札を頭上に掲げて拾ってたって本当ですか?」
「女性は、夜遊びに行く時、一切財布に手をかけなかったんでしょう?」
「ワンカットの撮影のためにスタッフ全員で海外に行ってたって、まさかですよね?」
 そうそう、それ全部ほんとのこと、なんて答えながら、なんだか私も不思議な気持ちになります。お伽話をしているのではないか、そんな錯覚を起こすのです。
 この際だから、記憶にあることを書いておこうと思います。日本にあんな時代は二度と来ないでしょうから。明日は今日よりもっとわくわくすることが待ち構えているに違いない、何の根拠もなくそう信じでいた、あの頃のあの雰囲気がなつかしい。
ナウい昔話するんで、イチゴを落としたシャンペンでも飲みながら読んでもらえたらうれしい、みたいな〜。

 

 平成から令和になる時、渋谷のスクランブル交差点では若者が乱痴気騒ぎし、記念品が売り出され、世の中はお祭り騒ぎだった。昭和から平成になる時のあの世の中がしんとした空気が身にしみた私としては、なんとも不思議だった。
 昭和が終わって平成が始まったのは1989年1月8日、まさしくバブルの真っ只中だった。この頃は西暦より和暦が多用されており、1989年の1月7日までと1月8日からではまったく別の時代という感じがした。

 

 前年の秋頃から体調を崩されていた天皇陛下のご様子は、ニュース番組や新聞などで詳細に報道されていた。プロ野球中継やドラマの放送中でも画面には度々、その時の天皇陛下の体温、脈拍、血圧、呼吸数などがテロップで流され、下血の際は下血量までもが国民に知らされた。
 ついに昭和は終わるのか、口に出さなくとも誰もが思っていた。

 

 次第に自粛ムードが強まっていった。プロ野球優勝チームのビールかけがなくなり、にぎやかなバラエティ番組やはなやかな催し物などいろいろなことが取り止めになった。井上陽水が出演していた日産のCMは、彼が走る車の助手席に乗り、窓を開けて「皆さあん、お元気ですか? 失礼しまーす」と呼びかけるというもの。あの独特の声と台詞まわしが印象的だった。しかし、この台詞が状況にそぐわないという理由で途中から音声がカットされて放映された。
 昭和天皇が崩御されたのは1月7日早朝で、その日の午後には「平成」という新しい年号が発表された。昭和六十四年はわずか七日間しかなかった。

 

昭和の終わりごろ、大学の謝恩会での著者。

 

 当時の私は文章を書く仕事を始める前で、「家事手伝い」という名を借りた無職。自宅住まいでやることもなく、友達とふらふら出かけることで日々を埋めていた。あの日はお昼近くまで寝て、起きてテレビをつけ、昭和が終わることを知った。テレビは訃報一色。CMもすべて自粛されていた。私は愛国者ではないし、かといって天皇制に反対するわけでもないけれど、悲しかった。今まで当たり前というか、意識さえしなかった「昭和」という年号がなくなってしまうのもさびしかった。

 

 その夜も友達と会う約束があった。「せっかくの土曜日だから」という理由で私たちは待ち合わせた。
 銀座線の外苑前駅から地上に上がって、青山ベルコモンズの前に出て、街が静かなことに気がついた。青山ベルコモンズは今の青山グランドホテルの場所にあったファッションビルだ。私たちはスキーショップジロー近くのカジュアルなご飯屋さんで待ち合わせたが、店は閉まっていた。あの頃、スキーショップジローは店の前を通ってショーウインドウを見るだけでわくわくするような存在だった。
 スマホもネットもSNSもない、まだ駅では伝言板を使っていた頃である。移動中の友達に連絡するすべもなく、店の扉に寄りかかって待っていた。よくあることだった。ほどなくして友人が来て、他の店を探しに青山通りに出た。今はあまり使われない呼び名のようだが、246の三宅坂から渋谷までを青山通りと呼んでいた。
 いつもはにぎやかなこの大通りも人が少ない。表参道のカフェに行ったけれど、そこも閉まっていた。街じゅうが喪に服しているのだった。それでも私たちは家に帰ろうという気にはならなかった。

 

 何軒か空振りして、かの「ブラッスリーD」を確かめてみようということになった。
 岡田大貳氏の手がけたレストランで、ブラッスリーDのDは大貳のDだ。岡田氏は東京の夜を作った人物といっても過言ではない。プロフィールを書き出すだけで、東京の夜の歴史がわかる。1960年代、東京のディスコのはしりだった赤坂の「キャステル」で支配人を務めた後、六本木で一番スノッブだったディスコ「ザ・ビー」を手がけ、1981年青山にファッショナブル中華のはしりである「ダイニズテーブル」を開業する。1986年に原宿にオープンさせた「クラブD」はその名の通りディスコからクラブへの転換となった店だ。
 青山通り沿いにあるブラッスリーDは、ダイニズテーブルと同じように一レストランというより社交場というほうが相応しかった。おしゃれな大人たちが毎夜毎夜集っていた。私はブラッスリーDで、それなりのレストランには待ち合わせのためのバーがあることを知った。
 無職にはハードルの高い店だけれど、思い切って階段を上がると、こんな日の夜でもブラッスリーDは開いていた。
 いつもははなやかな客で埋め尽くされている店内の客はまばらだった。バーカウンターには中年の男女がいて、男性はグレーのスーツに紺色のネクタイ、女性は黒いワンピース。女性の左手首には華奢な腕時計があって、アクセサリーはそれだけだった。二人の前のグラスには赤ワインが注がれていた。
 カウンターの向こうのバーテンダーは、「いらっしゃいませ」の代わりに黙礼し、お互いにゆっくり深々と頭を下げた。私たちも赤ワインを注文した。グラスが運ばれてきて、なんとなく隣の男女と目線を合わせてみんな静かにグラスをあげた。
 中年の男女もバーテンダーも黙っていた。私たちもほとんど話さなかった。残り数時間となった昭和を思いながら、ワインを味わった。店を閉めるだけが喪に服すことではないのだと思った。

 

 この話にとくにオチはない。昭和最後の日、街が喪に服していて、しんとしていたことを記録しておきたいだけだ。

 

ご愛読いただきました甘糟りり子さんの『バブル、盆に返らず』が、6月23日、ついに書籍として発売されます。WEB未発表13エピソードも収録。各書店にて予約受付中!(税込定価1,760円)
バブル、盆に返らず

甘糟りり子(あまかす・りりこ)

1964年、横浜生まれ。幼い頃から鎌倉に暮らす。玉川大学を卒業後、アパレル会社勤務を経て文筆の道へ。クルマ、レストラン、ファッションなど、都会のきらめきをモチーフにした小説やコラムに定評がある。 バブル世代の女性たちの40代を描いた『エストロゲン』(小学館文庫)や、現代に生きる女性やその家族が直面する問題を取り上げた『産む、産まない、産めない』『産まなくても、産めなくても』(ともに講談社文)は、読者の共感を呼びロングセラーとなっている。近著『鎌倉の家』(河出書房新社)、『鎌倉だから、おいしい。』(集英社)。
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イラスト / 久木田知子
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