知能検査、受けるべきか、受けざるべきか
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

 

知能検査というのは嫌なものである。

 

だって、知能が定量的に評価されるのである。数値が出てくるのだ。

 

知能検査の趣旨は、「得意分野や不得意分野を見極め、学習指導の方向性や、発達支援の必要の有無を判断」することである。満艦飾にいいことずくめである。

 

でも。そうはいっても。

 

知能をはかる物差しが与えられれば、優劣を感じずにはいられないものだと思う。

 

「優劣をはかるためにやるものじゃない」

 

医師が、臨床心理士が、セラピストが口を揃えてそういっても、やっぱり人は比較する。

 

それはそうだ。

 

たとえばぼくだって、「学校の試験は優劣をつけるためじゃなくて、到達度をはかるためにやるんだ」とか、「不得意だったところは、重点的に復習しよう」くらいのことは言う。でも、それがおためごかしに過ぎないことはすべての学生が知っている。優秀な成績を収めた学生は奨学金がもらえるかもしれないし、留学にも行きやすい。就活にだって影響する。およそ評価尺度のあるところ、必ず比較が立ち現れる。

 

定型発達の子と比べるだけではない。

 

障害のある子どうしでも、なんとなく序列感があるのである。

 

そんな序列つくることに意味があるのか、とは確実に思う。

 

だって、定型発達の子との差に比べたら、障害のある子どうしの差なんて、微々たるものである。誤差かもしれないほどの数字だ。

 

だけれど、できる子さんグループと、あんまりできない子さんグループはなんとなく分かたれるし、お互いに気を遣う。

 

それまで和気藹々とやっていたのが、能力が数値化されると同時に不可侵の透明でうすい膜(でも破られることはない)が形成されるのだ。切ない。

 

でも、それでも知能検査は受けておいたほうがいいと思う。

 

検査を受ければ、多かれ少なかれ傷ついたり傷つけたりはするのだ。しかし、永年積み重ねられてきた評価尺度は伊達ではない。数値化されたその子の能力は、かなり正確にその子がいま必要としている支援、将来進むべき方向を示すのだ。

 

ぼくは昔、「偏差値なんて」って思っていた。極めて一面的で押しつけがましい評価尺度であり、偏差値が高いから偉かったり優秀だったりするわけではないと。学校の成績がいいのと、社会で役に立つかどうかも別だと考えていた。

 

しかし、長年学校に勤めてみると、社会で必要とされる能力と偏差値のリンクに嫌でも気づく。生活態度やコミュニケーション能力まで、相関が見られるのである。

 

知能指数も同じである。

 

ある水準を下回ったら、支援を受けた方がいいし、一般的な数値の子たちと交流は持ちつつも教育の場面は少しわけたほうがよいと思う。定型発達の子と一緒に学ぶインクルーシブ教育は好きな考え方だし、貴重な機会だけれど、学習効率は決してよくない。

 

はじめて知能検査を受けるときはどきどきするし、思ったような評価が得られなかったりすると軽く奈落に落とされたような気持ちにはなるけれど、いつかは直面しなければならない現実である。

 

できるだけ早めにわが子の立ち位置を知って、どんな療育をすればいいのか、どんな将来を想定して準備すればいいのかを、感じておくのがいいと思う。

 

知能検査にはさまざまな種類があるけれど、どれを受けてもいいと思う。小さなお子さんが受けるとしたら、田中ビネーかWISCあたりだろうけれど、どの検査方法でも子どもが持っている能力の指標が得られる。

 

ただし、異なる検査の数値を比べることには意味がない。たとえば、田中ビネーで出てくる数値は発達割合の目安であるのに対して、WISCにおけるそれは同年齢の子どもの中でのポジショニングを表している。1メートルと1リットルを比べても仕方がないのと同じである。同じ子が同じ条件で両者を受検すると、田中ビネーのほうが10以上も高い数値が出てくることが知られている。だから田中ビネーしか受けないんだ、というご家庭とも知己を得る機会があったが、WISCの値と比べて一喜一憂しても仕方がない。

 

とはいうものの、ぼくとぼくの子が知能検査を受けに行ったのはだいぶ遅くなってからだ。だから偉そうに人のことを言えたものではない。その理由はと言えば、ぼくの子が試験用紙を解くものではなく、噛むものだと思っていたからだ。後年になって、言葉が出るようになってから聞いたことがある。

 

「なんで噛んでたの?」
「噛まずにいられない」
「おいしいの?」
「おいしいわけがない」
「試験を解かないとまずいのは知ってたよね」
「知ってた」
「じゃあ、解こうよ」
「解こうとすると、噛んでる」

 

前にもふれたが、コンピュータ屋のつたない理解では、知的障害はCPUのトラブル、発達障害は入出力機構のトラブルである。この場合も、問題を解こうとはしているので、いちおうCPUは動いていることが推定される。

 

しかし、そうであるならば、問題を解くという出力が得られるはずなのだが、なぜか出てくるのは「試験用紙を噛む」という出力である。典型的な入出力機構の不具合であると言えるだろう。

 

11歳になった今は、さすがに本が噛み痕だらけになることはなくなった。本が壊れなくていいやと思いつつ、ちょっと寂しくも感じる。

 

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大学の先生、発達障害の子を育てる

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
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