自閉スペクトラムの子は、引きこもりになりがち?
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

 

「自閉スペクトラムの子は、引きこもりになりがちである」
「いや、むしろ自閉=引きこもりだ」
よく聞く箴言である。
 

結果だけを見ると、まあ事実に近いところをかすっていると思うのだが、けっこう誤解もあると思う。

 

まず、自閉の子はコミュニケーションが苦手である。というか、へんだ。

 

コミュニケーションに困難を抱えていることが自閉症スペクトラム障害の成立要件を構成しているのだから、これは当たり前である。

 

でも、「コミュニケーションが苦手」には色々ある。語感と字面から言って、人が嫌いっぽいな、引きこもっちゃうのかな、と想像の翼が羽ばたくのは想像に難くないが、人が大好きな自閉の子もざらにいる。

 

人が好きすぎて、いついかなる時も話しかけちゃうとか(定型発達の子は、一定年齢以降はまあやらない)、パーソナルゾーンにしゅるりと侵入して妙に近い距離で話してしまうとか(定型発達の子は……以下同文)。

 

これらは人嫌いや引きこもりとは相反する性質だけれども、「コミュニケーションがへん」なのだと覚えておけば、そんなに違和感なく自閉症を理解できるのはないだろうか。だから、自閉症と聞いて連想するキーワードが「引きこもり」ではなくて、「コミュニケーションがへん」になるといいなあと、ちょっと思っている。

 

ぼくの子の場合は、人の負の感情が苦手だ。

 

負の感情といっても、平将門とか番町皿屋敷とかそんな大それたものではなくて、人のちょっとした苛立ちとか、その予感がするとか、そんなものがダメである。

 

「ドラえもん」が怖くて見られない子どもというのは、そんなに多くないだろう。自閉の子だってふつうに見ている。
でも、ダメだ。途中で逃げ出す。

 

のび太が友だちにからかわれるとか、ママに怒られるとか、実際にはまだひどい目にはあってないけど、どうやらそんな予感がするとか。

 

そういうシーンになると、ぷいっと部屋を出て行ってしまう。

 

最初は何が気に入らないのか、わからなかった。大人の目には、どうってことない、極めてふつうのシーンである。
やがて、ああ負の感情がダメなのかと気付いたときには、説得を試みた。

 

「物語というのは、文学者が研究し尽くしていくつかの類型にまとめているよ。主人公は、途中で必ず困難にぶち当たるものなんだ。そういう構造にしないと作家さんは筆が進まないし、話も面白くならない。しばらく待ってれば、ちゃんと納得のいくオチがつくよ。特に子ども向けはそうなってる」

 

こんな言説を弄して自閉っ子を説得しようとするぼくも阿呆である。懐柔は失敗した。

 

おかげで、親子で安心して見られるコンテンツはとても限られたものになっている。「サザエさん」はだいぶ安定して視聴できるが、カツオの怒られる予感には弱い。

 

ぼくの場合は、人がいるところが嫌だった。

 

引きこもり系に親和性が高い症状と言えるが、外に出るのは嫌いではなかった。野山や小川に行って何時間も歩くのは苦ではなく、日がな一日写真を撮って満足していた。ただ、その頃の写真は今でも残っているが、人が写っているものは一枚もない。

 

「どうして人を撮らないの? 写真って人を撮るためのものでしょう?」と言われたことがあるのだが、写真に人などという不純物を混ぜるのかと、こちらも驚いたことがある。でも、言われてみれば他の人やプロが撮った写真には人が写っているのだった。

 

以前に神谷町に住んでいたのは、そこが完璧なビジネスタウンで、週末や年末年始にゴーストタウンになるのが大好きだったからだ。ぼくは科学技術に耽溺した生活を送っているので、人が苦手だからといって、人里離れた山奥に住もうという発想にはならないのだ。

 

だから遠足は苦手だった。

 

他の人が吐いた息をそのまま吸い込むような距離感が苦手なのである。

 

子ども同士はよくしたもので、こちらが一人がいいのだなと理解すれば放っておいてくれるのだが、たまにそうはいかない先生に当たる。

 

「どうしてみんなの輪に入らないの? 気後れしてるなら、先生が連れて行ってあげる」
「いえいえ、ぼくは一人でいるのがすきなので、どうぞお構いなく」
「なに言ってるの。あっ、何か思うところがあるのね。だいじょうぶ! 人と違っているところや、人と比べて劣っているところがあると思っても、意外に他の人は気にしないし、そういうの全部含めて人間なのよ。みんな仲間なの! さあ、一緒に行きましょう!」

 

……最悪である。いや、すごくいい人なんだってことはわかってる。100%善意なのだろう。応えないといけないたぐいの誘いなのだろう。だからこそ逃げようがない。

 

多様性、というフレーズはまだ市民権を得る前だったので、「みんなちがって、みんないい」くらいの言い回しだったと思うが、そこで適用される多様性は「みんなが笑顔で一緒に参加している」という善があって、その善のなかで破顔している人も、微笑している人も、高笑している人もいていいよ、といった種類のレンジの狭い多様性だと思うのだ。

 

その輪の中に入らず、ちょっとすみっこのほうで1人でいたいんです、という多様性はそもそも多様性の中にはカウントしてもらえず、予め奪われている。

 

もちろん、みんながみんなすみっこでいじいじしてたら、集団や社会なんて成り立たないので、教育の現場で「輪の中に入ろう!」とやるのはいいのだ。でも、だとしたら、あまり多様性といった言葉を乱発して欲しくないなあ、とは思う。

 

発達障害に関する読者の皆さんのご質問に岡嶋先生がお答えします。
下記よりお送りください。

 

大学の先生、発達障害の子を育てる

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
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