信仰に厚く理想が強かった 作家・深沢潮さんの母(前編)
小川たまか『私たちの母の話』

BW_machida

2021/05/19

家父長制の中で割り振られた「役割」に疑問を持って立ち上がる女性たちを描いた『乳房のくにで』。著者の深沢潮さんは在日韓国人の両親を持つ。「韓国は日本よりも男尊女卑が根強い」と語る深沢さんの語る、母の姿とは。

 

『乳房のくにで』双葉社
深沢潮/著

 

信仰の深いカトリック教徒だった

 

――深沢さんのお母さんはどんな方ですか?

 

インタビューを受けるにあたっていろいろ思い出してみると強烈な人だなあと。押しが強いというのではなく、人当たりはソフトだし、親切。でも自分の理想が強くて、子どもを思い通りにしたい気持ちが強い。今は83歳です。

 

――83歳というと、最近何かと話題の森喜朗さんと同世代ですね。

 

母の場合、子どもを亡くしているというのも大きいんだと思います。私が8歳のときに3歳上の姉が心臓の病気で亡くなりました。すぐ上の兄も1歳で亡くなりましたし。それからカトリック信者だったことに加え、在日コリアンの家だったので儒教的な考え方も強い。男尊女卑的な考え方が強かったですね……。

 

――お母さんは日本生まれですか?

 

そうです。品川区の大井町で生まれた二世です。父は戦後に来日しています。母の母、私の祖母は戦後、祖父の営むプラスチック工場に布教に来た神父様から洗礼を受けたそうです。マイノリティの貧しい人たちへ布教する方針があったのでしょうね。工場の従業員もみんな信者になったそうで。

 

――そうすると家族みんなで信仰ということに。

 

聖書はカタカナで書いてあって、日本語の読めない祖母は聖書でカタカナを覚えることができました。祖母が熱心だったので母も素直に信仰をして。我が家はお年玉をもらったら1割はユニセフに寄付する習慣があったし、母は奉仕とか寄付についてはすごく意識が高かったですね。

 

ただまあ熱心すぎるところはある。あるとき妹が「聖母マリアの処女懐妊は科学的にあり得ない」ってちょっと強く言ったら泣き出してしまったことがあって。その価値観で子どもを育てるのは怖いなとは思いますよね。

 

1987年、深沢さんの下の妹(中央)の初聖体。左端から、深沢さんの母、上の妹、伯母、大学生時代の深沢さん。

 

終戦を迎えたのは小学校1年生の頃

 

――終戦の頃、お母さんは小学生ぐらいですよね。

 

はい、母は小学校1年生で終戦を迎えました。戦後、民族の言葉を習えるようになって、民族学校に通えるから最初はそこへ。民族学校では当時弾圧があり、先生がデモに子どもを駆り出しました。

 

来日前、故郷で小学校の教師をしていて教育熱心だった祖父は、これでは勉強できないと思ったのか、3年生から日本の学校へ転入させたそうです。それから高校までずっと日本の公立校でした。

 

――学校生活は(どうだったのでしょうか)。

 

いじめがあったというのは聞きましたね。母は学級委員を務めたりしていたようなのですが、中学校で英語のスピーチコンテストに出たあとに、校内で歩いていたら上から植木鉢を落とされたって。その話は繰り返ししていましたから、よっぽどショックだったんでしょうね。

 

――それは経験したら忘れられないですね。

 

好きな人もいたけれど、日本人だったから反対されて交際できなかったとも言っていました。

 

男女交際禁止のルール

 

――先ほど儒教的、男尊女卑的な考え方が強かったとおっしゃいましたが、具体的にはどんなことがあったのですか?

 

日曜日に父より遅くまで寝ていたらダメで、ちゃぶ台の前で正座してみんなで父が起きてくるのを待つんですよ。

 

――え、想像以上です。

 

高校生になってからも、父より遅い帰宅は怒られました。といっても19時とかですよ。大学生になってよく破りましたけれど。私は結果的に長女だったので、親の期待も大きく、結婚も在日同士でと思っていたみたいで、男女交際も禁止でした。韓国にいる韓国人よりも、昔の価値観を持っていたようなところがあります。

 

――現在、韓国ではキリスト教徒が3割近いと言われますよね。日本と違ってなぜそんなに多いのかなと前から思っていて。

 

戦後の布教がうまく行ったんでしょうね。韓国は独裁国家でしたが宗教的な自由はある程度保障されていましたから弾圧もなく。

 

それからプラクティカルな理由としては、面倒な法事(※)をやらなくてすむということもあるのではないかと思いますよ。お金もかかるし、手間がかかるので女性の負担が大きいですし。

 

(※)祭祀(チェサ)と呼ばれる先祖供養。通常、長男が代表して行う。親戚を集めモチや果物など何種類もの料理を用意する。家庭によって異なるが、年に数回行う場合も。

 

1979年頃、深沢さんの中学校の入学式に母と。

 

結婚後は専業主婦に

 

――英語のスピーチコンテストに出て学級委員長だったのなら、お母さんは優等生だったのではないでしょうか。

 

英語は得意だったようだし、そうかもしれないですね。でも母は大学には行っていないです。6人兄弟でお兄さんたちは大学に進学したけれど、女性が大学に行くような時代ではまだなかった。というか、女だから、と行かせてもらえませんでした。

 

(※)1950〜60年代にかけての女性の大学進学率は10%以下。男性は2〜30%程度。

 

――それでは高校卒業後は?

 

英文タイプとかも習っていたようなんですが、働くのもダメ、大学もダメと言われたから、お花を習ったりして花嫁修行をしていたみたいですね。お見合いも勧められていたみたいだけれど民団(※)の青年部で父と出会って結婚しました。

 

(※)在日本大韓民国民団。1946年創立の在日韓国人組織。

 

――結婚後は専業主婦だったのですか?

 

はい、ずっと。読み聞かせのボランティアや、児童館や老人ホームを慰問して歌を歌うことはしていました。母は本当は音大に行って声楽をやりたかったみたいですね。私の下の妹は3歳からピアノをやっていて音大に行ったんですが、母の夢を叶えたのかも。

 

【深沢潮さんプロフィール】
1966年東京都生まれ。上智大学文学部卒業。会社員や日本語講師を経て2012年に『金江のおばさん』で「女による女のためのR-18文学賞」を受賞。著書に『緑と赤』『ひとかどの父へ』『乳房のくにで』など。

 

【年表】

西暦  個人史 社会史
 1938年  母生まれる  
 1945年  小学校へ  終戦
 1947年  父が来日  
 1952年    在日コリアンを「外国人」として統制の対象とする出入国管理体制「1952年体制」の確立
 1955年    朝鮮総連結成
 1961年  結婚  
 1966年  次女(深沢さん)誕生  
 1985年    雇用機会均等法
 1989年  深沢さんが大学を卒業  
 1990年頃    マドンナ旋風
 1993年  深沢さん結婚  
 1997年    韓国のIMF通貨危機
 2016年    韓国で『82年生まれ、キム・ジヨン』が100万部を超えるベストセラーに

 

(後編へ続く)

私たちの母の話

小川たまか

ライター
主に性暴力、働き方、教育などを取材・執筆。
性暴力被害当事者を中心とした団体、一般社団法人Springスタッフ、性暴力と報道対話の会メンバーとしても活動。
初の単著『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を』(タバブックス)が発売中。
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