談春の飛躍【第29回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

2003年頃から兆しを見せ始め、2005年に本格化した「落語ブーム」。

 

その中で「次代の名人候補」として一躍注目を集めるようになったのが、立川談春だ。
二ツ目時代から談春の「落語の上手さ」には定評があった。1997年の真打昇進時に談春の『庖丁』を聴いて師匠の談志が「俺よりうめぇ」と言った、というエピソードは有名だ。

 

もっとも、TV番組『落語のピン』での人気を背景に2年早く真打昇進した弟弟子の立川志らく(入門は1年半遅い)が「シネマ落語」を前面に打ち出して順調に売れていったのに対し、談春は真打昇進後、しばらくは雌伏の時を過ごしていた。

 

もちろん、見る人はちゃんと見ていて、演芸写真の第一人者である橘蓮二氏が2001年12月に出版した撮り下ろし写真集『高座の七人』(講談社文庫)には小朝、志の輔、昇太、花緑、たい平、喬太郎と並んで談春も登場、作家・演芸評論家の吉川潮氏が談春の逸材ぶりを激賞し、「私はなるべく長生きしてこ奴が名人になった姿を拝みたい」と結んでいる。2001年の時点でここまで言う評論家は吉川氏だけだった。

 

吉川氏はその中で志らくと談春を「前座の頃からモノが違った」と評し、談春を150キロの豪速球を投げる高卒の投手、志らくを七色の変化球を投げる大卒投手に例えて、即戦力の志らくと異なり談春は大器晩成だとしている。

 

そんな「未完の大器」談春の躍進が始まったのは、入門20周年を迎えた2004年のこと。この年の11月に3日間連続で行なわれた「大独演会」は「二十年目の収穫祭」と銘打たれた一大イベントで、談春の快進撃はここから始まる。

 

だが、その前兆は1年前からあった。

 

2003年1月、談春は月例独演会の場を前年までのお江戸日本橋亭から築地本願寺ブディストホール(座席数164)に移した。この会をベースとして、談春は来たるべき飛躍の時に向けて着々と地盤を固めていく。

 

3月18日、談春は第1回「東西落語研鑽会」のトップバッターとして登場、『替り目』を演じた。これは、小朝が「選りすぐりの若手」として真っ先に談春を起用したということだ。

 

同月、2002年度国立演芸場花形演芸会金賞を受賞。花形演芸大賞は国立劇場や国立演芸場などを運営する独立行政法人日本芸術文化振興会が若手芸人に与える賞で、大賞、金賞、銀賞の3段階。若手を対象とする賞の中でも「国が認めた」という意味で最も重みがあると言われる賞だ。(談春はこの翌年、2003年度の大賞を受賞することになる)

 

この年の10月14日から16日までの3日間、落語立川流創設20周年を記念して、池袋の東京芸術劇場小ホール2(客席数300)で「立川流真打の会~家元に捧げる三夜」と題した3日連続の落語会が開かれた。立川流の真打全員が出演するこのイベントの第一夜に談春はトップバッターとして高座に上がり、『道灌』を演じた。

 

この会のプログラムには立川流の新顧問に就任した吉川潮氏が各演者について寸評を載せていて、談春についてはこう書かれている。

 

「『大器晩成』が、思いの他、早く開花した。高座姿は『容姿端麗』でかっこいい。『新進気鋭』が勤める開口一番はぜいたくだ」

 

吉川氏は「開花した」と書かれていたが、僕には正直、談春が「開花」したという実感がなかった。僕にとってはまだ談春と言えば知る人ぞ知る「隠れた逸材」だった。

 

だが、早くから談春をよく知る吉川氏は、この時点でおそらく翌年からの「談春の飛躍」を予感していたのだと思う。

 

吉川氏はウェブマガジン連載の2003年3月31日付「私のイチ推し」という記事(牧野出版刊『芸能鑑定帖』所収)で談春と志らくの2人を大いに推しているが、そこに書かれていたニュアンスは2001年当時とあまり変わらない。ということは、そこから10月までの半年間での談春の成長・開花を、吉川氏が見て取ったのかもしれない。

 

だが僕自身は、毎月ブディストホールに通うような熱心な談春ファンではなかったからか、談春の「開花」をそれまでの高座から感じたことがなかったし、2003年10月に観た『道灌』からも特に強い印象を受けることはなかった。(もちろんこの日は開口一番という立場をわきまえて、談春はあえておとなしく演じたのだろうが)

 

そんな僕が「談春が化けた!?」と強烈な印象を受けたのは、2004年7月3日の「談志一門会」(有楽町・よみうりホール)で観た爆笑編の『鰻の幇間』。それまで僕が抱いていた「口調がきれいで達者な演者」というイメージから「豪快で面白い天才落語家」という談春像に変えたのが、このときの高座だった。

 

それはあくまで僕にとっての、たまたまのきっかけだったのかもしれないが、少なくとも僕にはあのハジケた『鰻の幇間』から、遂に談春が本来の「器の大きさ」を解放し、大きく開花したのだということを感じ取った。そしてそれ以来、「豪快で面白い天才落語家」としての談春を、僕は意識的に追いかけるようになる。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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