なぜ論より詭弁なのか?
高橋昌一郎『<デマに流されないために> 哲学者が選ぶ「思考力を鍛える」新書!』

bw_manami

2019/06/15

現代の高度情報化社会においては、あらゆる情報がネットやメディアに氾濫し、多くの個人が「情報に流されて自己を見失う」危機に直面している。デマやフェイクニュースに惑わされずに本質を見極めるためには、どうすればよいのか。そこで「自分で考える」ために大いに役立つのが、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」である。本連載では、哲学者・高橋昌一郎が、「思考力を鍛える」新書を選び抜いて紹介し解説する。

 

なぜ論より詭弁なのか?

 


香西秀信『論より詭弁』(光文社新書)2007年

 

連載第19回で紹介した『気骨の判決』に続けて読んでいただきたいのが、『論より詭弁――反論理的思考のすすめ』である。本書をご覧になれば、社会が必ずしも「論理的思考」で動いていないこと、現実の議論においては「反論理的思考」が有効であること、むしろ他者を説得するためには「論より詭弁」を使わざるえないことが、明らかになってくるだろう。

 

著者の香西秀信氏は、1958年生まれ。筑波大学第一学群人文学類卒業後、同大学大学院教育学研究科博士課程修了。宇都宮大学教育学部教授だった2013年、55歳の若さで病死されたことが惜しまれる。専門は修辞学・国語科教育学。とくに多彩なレトリックに関連した解説で知られ、『反論の技術』(明治図書)や『論理病をなおす!』(ちくま新書)など著書も多い。

 

長年「論理学」に関する講義を行ってきた経験から、私も常々実感していることだが、ともすると「論理的思考」は「頭でっかち」な人間をさらに「頭でっかち」に増幅する武器になりかねない。したがって、私の講義では、論理の「完全性」(美しさ)と同時に「限界」(危険性)の両面に関わるディスカッションを加えることにしている。この周辺の話題については、連載第11回で紹介した拙著『東大生の論理』をご参照いただければ幸いである。

 

さて、ある数学者が電車で痴漢をして現行犯逮捕されたとする。ここでよく見掛けるのが「痴漢をするような奴の論文は信用できない」というタイプの感情論だが、これは古代ギリシャ時代から「人格に訴える虚偽」と呼ばれて批判されてきた「非論理」である。彼が実行した行為の犯罪性と、彼が証明した定理の正当性に、まったく関係がないことは明らかだろう。

 

アメリカの記号論理学会で、高名な論理学者X教授に、当時評判になっていたY教授の論文について感想を尋ねたことがある。X教授は、「以前、Yの論文を読んだことがあるが、間違いがあった。それ以来、私はYのことを信用できなくて、彼の論文は読んでいない」と答えた。

 

しかし、X教授が読んだというY教授の論文は10年以上前の著作であり、その後Y教授は20本以上の論文を発表している。Y教授の初期論文に間違いがあったとしても、彼の最新論文の内容とは無関係である。X教授ほどの人物でさえ「人格に訴える虚偽」に陥ることがあるのか(故意になのかもしれないが)と、不思議に思った記憶がある。

 

一般に「人格に訴える虚偽」とは、ある見解に対して具体的に反論するのではなく、その見解を主張した人格の「個性」や「信念」や「行動」などに論点をすりかえて攻撃する論法を指す。

 

教師が学生の遅刻を注意したとする。「先生は高圧的だから、そういう注意をする」と口答えする「罵倒型」、「先生は校長の勤務評定がほしいから、細かいことに拘る」と逆らう「偏向型」、「先生だって授業に遅れることがあるじゃないか」と反抗する「お前も同じ型」のように、さまざまな型があるが、学生の遅刻そのものとは無関係の論点に話に逸らしているにすぎない。

 

このように社会が「偏った力関係」で成り立っている以上、この種の「人格に訴える虚偽」を「論理的」に批判するばかりではなく、有効活用すべきだというのが香西氏の立場である。

 

さきほどの数学者の例を考えてみよう。仮に数学の学会が記念論文集を発行する予定で、その数学者の論文が巻頭を飾ることになっていたとする。彼が痴漢容疑で逮捕されたニュースを知った論文編集者は、慌てて巻頭論文を差し替えるだろう。いくら彼の行為と論文の中身が「論理的」に無関係だとしても、事件を起こした人物の論文を学会誌の巻頭に掲げるべきではないと「倫理的」に判断するのが学会の立場であり、それこそが社会的活動だと香西氏は考える。

 

有名人が麻薬取締法に違反して逮捕される、あるいは不倫が週刊誌に暴露されるといった事件が後を絶たない。その都度、関係する放送は中止、キャストは代役に変更、過去に出版された作品でさえ配給停止になる。彼らの業績と私生活は「論理的」には無関係であっても、「社会的影響」が優先して考慮される。それこそが、現代人を納得させる「レトリック」なのである。

 

私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。(P. 15)

 

どうすれば頭でっかちの「論理的思考」に陥らないで、現代社会の「レトリック」を活用できるか、その本質を理解するために、『論より詭弁』は必読である!

<デマに流されないために> 哲学者が選ぶ「思考力を鍛える」新書!

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授。専門は論理学・哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書)、『反オカルト論』(光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など。情報文化研究所所長、JAPAN SKEPTICS副会長。
関連記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitterで「本がすき」を

RANKINGランキング