台湾独立派の拠点となった中華料理店――池袋「新珍味」(1)
下川裕治「アジア」のある場所

BW_machida

2020/12/11

コロナ禍で海外旅行に出られない日々が続きます。忙しない日常の中で「アジアが足りない」と感じる方へ、ゆるゆる、のんびり、ときに騒がしいあの旅の感じをまた味わいたい方へ、香港、台湾、中国や東南アジアの国々などを旅してきた作家の下川裕治が、日本にいながらアジアを感じられる場所や物を紹介します。

 

にんにくと胡椒がほどよく効いた半ターローメン

 

 池袋の北口に広がる猥雑な繁華街。その一角に一軒の中華料理店がある。広さは11坪。5階建ての細長いビル。いまは1階から3階までが店になっている。人気はターローメン。大滷麺と書く。滷という文字にピンとくる人はいるかもしれない。
「新珍味」というこの店をつくったのが、台湾人の史明(しめい)だった。昨年、史明は100歳でその人生を閉じた。
 彼の話を2012年の台湾からはじめようと思う。

 

2012年総統選。この選挙で蔡英文は敗れる。壇上には李登輝があがった(写真/筆者)

 

 その夜、僕は台湾の新北市板橋区にある競技場にいた。会場は夥しい人々で埋まっていた。ペンライトが揺れる。壇上には蔡英文が立っていた。
 台湾の総統選の前夜だった。中国とは距離を置こうとする民進党は女性の蔡英文を総統候補に立てた。彼女にとっては、はじめての総統選だった。しばらくすると、壇上に背の高い老人があがった。李登輝だった。かつての総統である彼は、自ら政党を立ちあげるなど、民進党とは一線を画しているかに見えた。しかし最後には民進党に合流した。
「私の子供たちをよろしく」
 その声は力強かった。彼は今年亡くなった。97歳だった。
 しかし蔡英文はこの選挙で勝つことはできなかった。国民党の馬英九が再選された。
 それから4年後。僕は再び台湾にいた。総統選だった。民進党の投票前夜の集会は、台北駅に近い凱達格蘭大道(ケタガランたいどう)で開かれた。広い通りが人で埋まる。ステージにはなかなか近づけない。民進党は再度、蔡英文を立てた。そしてその壇上に車椅子姿の史明があがった。

 

2016年の総統選。蔡英文は当選した。壇上には史明があがった(写真/筆者)

 

 史明──。彼が壇上にあがる。考えられないことだった。かつて蒋介石の暗殺を企て、日本に亡命した男である。それは蔡英文の中国に対する鮮烈なメッセージでもあった。そして蔡英文が歴史的な得票数で勝利する。まるでいまの台湾を読んでいたかのように。
 史明の評価が高まりつつある。一貫して、台湾人アイデンティティを訴え続けた男だった。それに刺激されるかのように、台湾の若者たちはこんな言葉を口にするようになった。
「私たちは中国人ではなく、台湾人です」
 若者たちが起こした「ひまわり運動」に史明は顔を見せていた。中国は一国二制度を反故にするように香港に介入し、多くの民主派が捕らえられていた。そしてコロナ禍。そんな状況が追い風になっているとはいえ、ここにきて史明が復活してくる……。
「新珍味」でターローメンを啜りながら僕は呟いてみる。史明が池袋の中華料理店から唱え続けていた台湾の革命は実を結びはじめたのかもしれない……。
 史明に会ったことはない。凱達格蘭大道の集会にしても、僕の立つ位置はステージから遠く、彼の姿は見えなかった。後で知らされただけだ。一度会ってみたかった。いや、会わないほうがよかったのか。

 

 史明は1918年、台北で生まれた。日本の統治時代である。彼は日本敗戦まで日本人として育つ。1940年、早稲田大学に入学する。
 資産家の息子だった。大学時代、彼は下北沢に住んでいたが下宿ではなかった。父が買い与えてくれた一軒家に暮らしている。
 学生時代、彼はマルクス主義に傾倒していく。そのあたりは京都大学に進学した李登輝に似ている。李登輝もマルクス主義に傾き、戦後、台湾に帰った後、中国共産党に入党している。
 李登輝は日本で徴兵されているが、5歳年上の史明は徴兵前に大学を卒業する。そして中国の上海に渡る。中国共産党の解放区に入るためだった。
 彼は日本人を見て育った。国のために命をささげる国民が周りにいた。彼にとっての国は中国だった。彼は中国の革命に身を投じたわけだ。
 彼に与えられた任務はスパイだった。日本語で得た情報を、日本軍と闘う中国共産党に伝える役割だった。この任務は日本敗戦まで続いた。
 日本軍が撤退した後、中国共産党の解放区に入る。中国国民党との内戦が激化していた。そのとき、彼は日本人女性を妻にしていた。
 解放区での日々は過酷だった。台湾を支配下に置いた中国国民党は、台湾兵を中国に送り込んできていた。中国共産党は、その捕虜を中心にした部隊を構成し、国民党との戦闘に送り込もうとした。指示したのは鄧小平だった。そして史明はその指導を命じられる。
 しかし所詮は消耗される部隊だった。最後には史明自身、中国を脱出するのだが、この時期に、史明は台湾人アイデンティティを強く心に刻んだはずだ。中国共産党は完全なタテ型の身分社会だった。日々続く自己批判と粛清……。そのなかで犠牲になっていく台湾兵。彼はその部隊を指揮していた。
 史明は身分を隠し、日本人の妻と一緒に台湾に脱出する。妻は中国共産党での日々を後にこう話していたという。
「あれは人間が住む世界ではなかった」
 しかし史明が戻った台湾では、二・二八事件を経て、蒋介石率いる中国国民党の弾圧がはじまっていた。白色テロの時代である。台湾人は理不尽な理由をつけられ、監獄島といわれた緑島に次々と送られていった。

 

台北の独立派の店「阿才的店」(写真/阿部稔哉)

 

 そのなかで史明は蒋介石暗殺を企てる。しかし計画が発覚。台湾のなかでの逃亡を続け、日本への密航の道を選んだ。基隆からの貨物船のバナナの荷のなかに隠れ神戸に着く。そして勾留されることになる。
 しかし運のいい男だ。亡命申請が受理されるのだ。そこで開いた店が「新珍味」だった。
 ふーッ。彼の「新珍味」開店までの半生をまとめるだけで、これだけの文字を使ってしまった。続きは2週間後。(つづく)

 

行き場の無くなった蒋介石像が寄贈される「慈湖紀念雕塑公園」(桃園市)(写真/阿部稔哉)

 

詳しくは動画でご覧ください。

「アジア」のある場所

下川裕治(しもかわゆうじ)

1954年松本市生まれ。旅行作家。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビュー。おもにアジア、沖縄をフィールドに著書多数。『「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『世界最悪の鉄道旅行』(新潮文庫)、『10万円でシルクロード10日間』(KADOKAWA)、「週末ちょっとディープなベトナム旅」(朝日新聞出版)、「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(中経の文庫)など著書多数。
YouTube下川裕治のアジアチャンネル

<撮影・動画協力>
阿部稔哉(あべ としや)
1965年岩手県生まれ。フォトグラファー。東京綜合写真専門学校卒業後、「週刊朝日」嘱託カメラマンを経てフリーに。

中田 浩資(なかた ひろし)
1975年、徳島市生まれ。フォトグラファー。97年、渡中。ロイター通信社北京支局にて報道写真に携わる。2004年よりフリー。旅行写真を中心に雑誌、書籍等で活動中。
https://www.nakata-photo.jp/
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