【第6回】芋を運ぶ 著:三砂ちづる
「少女・女・母・婆」〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜

忘れてしまった、身体の力。脈々と日常を支えてきた、心の知恵。まだ残っているなら、取り戻したい。もう取り戻せないのであれば、それがあったことだけでも知っておきたい……。 日本で、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、ラテンアメリカで。公衆衛生、国際保健を専門とする疫学者・作家が見てきたもの、伝えておきたいこと。

 

1926年、石垣島生まれ

上地節(せつ)さんは、92歳。沖縄県石垣市登野城(とのしろ)に住み、なんでも知っていて、人望のある方。ふっくらとして穏やかに笑っていて、お話をうかがっていても、寸分のずれもない。頭脳明晰。

 

地域の行事であるアンガマーも結願祭(きつがんさい)も全て頭に入っているから、ずっと、指導する立場にある。踊りも大好きで得意なのだ。

 

頭に、ものをのせて運んでいましたか、と聞くと、はい、ずっと。芋をのせて運んでいましたね、と言う。芋、とは、サツマイモである。

 

・・・・・・

 

子どもの頃からね、芋をのせて、頭に担いで、戦前には売りにも行っていましたね。うちはお父さんがいなかったから、女が頭にのせて運ばなければならなかったの。

 

でも、おばさんが宮古島で料亭をしていてね、小学校2年の1学期から5年生の2学期までは、宮古に連れて行ってもらっていたの。そこでは登野城でやっていたように子守りしながら学校に行く必要もなくて、芋も運ばなくてよかった。

 

宮古の学校では、ずっと遊んでいましたね。宮古島の平良(ひらら)の坂の上にあった月見亭という料亭でしたね。そこにいたから私は宮古の言葉も覚えて、ですね。だから、宮古の言葉も話せますよ。今でもね。

 

宮古では、働かないで学校だけ行かせてもらったけれど、登野城(石垣島の)に帰ってきたらそうはいかないのね。こちらでは芋ほりをしないと、食べるものもない。売りにも行けない。

 

 

父は私が6つの年に亡くなっていましたから、女だけでなんでも運んだり売ったりしなければならないのよ。家に馬がいたり、男がいたりすると、女が運ばなくていいから、そういうおうちのことは、いいなと思っていましたよね。

 

小学校1年生か2年生くらいの頃は、小さいバーキ(ざる)を頭にのせて、そこに芋をのせて運んでいました。練習? してないよ。のせたら、運ぶの。それだけ。でも小さい頃は、両手を離すことはできなくてね、片手をバーキに添えていました。

 

バーキのチビ(ざるの底のこと)が落ちないようにね、ガンシナー(藁で作った、頭の上にのせる輪状のクッションのようなもの)を頭の上においてから、バーキをのせます。頭にのせたバーキを落としたこと? ないですよ。それは、ない。

 

落としたら、困るさ。拾えないのに。でも一回だけ、つまずいて、荷物が落ちたことはあるかな。一回だけね。なんで普段は、落としたこともないし、落ちないかって? だからね……。なんでかね……。

 

・・・・・・

 

頭にのせて運べない女の人はいなかった

バーキと呼ばれるざるに、芋を入れていく。芋の量が少ない時は、バラ詰めにして適当に入れるのだが、芋がたくさんある時は、バーキへの芋の入れ方にコツがある、と節さんは言う。

 

バーキの内側に沿うように、芋を立てていき、一周したら、次は外側の芋の間と間に、芋を立てる。そうやって外側から順々に内側に向かって芋を立てていき、真ん中に向かって少しずつ盛り上がっていくみたいにして詰めるのだという。

 

そのようにバーキに芋が詰められると、かなり重い。30キロくらいになる。30キロの重さになると、自分では頭にのせることができないので、人に頼んでのせてもらい、下ろす時も一人では下ろせないから誰かに手伝ってもらう。バーキではなくて、袋詰めの芋の場合は、自分で下ろすこともできたけれど、と言う。

 

男の人は、頭にのせて運ばないよ。男の人は担ぐの、肩に。頭にのせるのは女だけ。なんでかって?なんでかね~。男の子は絶対、頭にのせようとしなかったよね。女の子だけ。

 

芋のほかに運んだものは、野菜とかね、パパヤー(パパイヤ)とか、バーキに入れて運びましたね。水は運ばない。水は頭にのせては運ばなかった。この辺りでは水を頭にのせている人を見てないね。

 

水は担いで(天秤棒の前と後ろの先に水の桶をつけて)運んでいましたね。水の瓶(かめ)も頭にのせてみたことはある。でも難しかったね。芋は動かないでしょう。水は、たぷたぷ、動くからね。難しいの。

 

水も毎日運ばなければいけないからね、外から帰ったら水も汲みに行きましたよ。井戸から水を汲んで家にある水瓶をいっぱいにしておく。3回は行ったり来たりして水も運びましたね。

 

でも頭にはのせていないですよ。水はね。糸満の人(沖縄本島の漁港である糸満から、漁師とその家族が石垣にも移住していた)は、水も頭にのせると言っていましたけどね。

 

芋は動かないから運びやすい。米の入った袋は、もっと運びやすいよ。最後まで頭にのせて運んでいたのは、米ですね。60いくつかになるまで、運んでいたね。

 

 

他にはですね、頭にのせてマキを運んでいましたね。お母さんの世代ではみんなやっていたと言いますよ。畑に行って、帰りはマキを頭にのせてきた。枯れたマキね。生木は重いから。

 

枯れたマキのね、結構長いの、この畳の幅くらいある長いマキを3箇所くらい縛って、運んでいたんですよね。

 

でも、やっぱり芋。芋をのせる。重いから、手で持てないので、頭にのせるの。自転車よりも頭の方がたくさん運べます。自転車にはそんなに積めない。

 

あとね、リヤカーもあったけど、道が舗装されているわけじゃなくて、でこぼこなわけですから。下り坂があったりすると、リヤカーじゃ危ないですし。牛や馬がいないうちでは、みんなやりましたから、昔の人で頭にのせて運べない女の人はいなかった。

 

やればできるんですよ。やらねば、できない。足は、もちろんはだしですよね。下駄はよそ行きでね、よそに行った時に履くために、道を歩く時は、はだしで、下駄を手に下げて、行っていましたね。

 

・・・・・・

 

芋とはだしは消え、沖縄に残るもの

節さんの話。「芋とはだしの沖縄」、である。

 

私自身が沖縄に住んでいたのは、1986年頃で、そこから数年、生活の拠点にしていた。時は、西銘順治(にしめじゅんじ)保守県政の頃であった。

 

当時の西銘知事は、私たちの世代(2018年に還暦前後)なら、誰でも知っている「芋とはだしの沖縄でいいのか」をキャッチフレーズに、1968年(当時は沖縄は日本に復帰もしていなかった)の琉球政府行政主席公選で屋良朝苗(やらちょうびょう)氏と闘った人である。

 

米軍基地撤去、即時返還をもとめる革新統一候補が勝てば、昔のような芋とはだしの暮らしに戻ってしまう、と言ったのだ。

 

革新統一候補、屋良朝苗氏は、そのときの選挙を勝ち、長く行政主席、そして知事の職にあった。その後、西銘氏自身も長く知事の職につき、その後の沖縄県知事は保守であったり革新であったりしている。

 

 

1968年から50年経って、芋とはだしの沖縄、ではない。米軍基地は、今も多くがそのままに残る。基地をめぐる論議で島が分かれる。

 

沖縄は多くのアーティストとスポーツ選手と若者たちが憧れる島になり、島の風景を懐かしんで、あるいは美しいビーチに魅せられて、訪れる数多(あまた)の観光客の心安らぐ場所となり、沖縄系移民の子孫が訪れて、こここそが私のいるところ、と言わしめる場所になっている。

 

私が顔を知る沖縄の友人たちの抱く沖縄への自負と愛情は、揺るぎない。この島の今。いかなる意味でも、芋とはだしの島ではない。

 

92歳の節さんは、もちろん、もう、はだしで芋を運んだりしたくないと思う。つらい時代だったのだと思う。子孫たちにそんな生活はもちろんさせたくないと思う。

 

しかし、なんと言えばいいのだろう。この生活の手ざわりと実感。芋とはだしの沖縄にもちろん二度としたくないし、そのような日本にもしたくない。昔がよかった、などと能天気なことを言うつもりも、毛頭ない。

 

しかし、節さんの語る、芋をバーキにのせていた芋とはだしの日々が、悲惨だけであった、と、どうして切り捨てることができようか。

 

どんな生活も、一人一人の懸命な日常と、織りなされた人間関係の中に、豊かに立ち上がってゆく。その頃の節さんの日々が、アンガマーや結願祭や満月のお祝いを、誰よりも熟知し、誰よりも信頼される節さんの今、を作り上げている。

 

私たちは彼女のように、老いていけるだろうか。舗装された道路もなく、はだしで黙々と30キロの芋を頭にのせて歩いていた節さんのことを思うとき、「芋とはだしの沖縄に戻りたくないなら、基地を受け入れるしかない」という論理は、いかなる意味でも実感を伴い得ないことがわかる。

 

今、芋とはだしの沖縄ではないのは、芋とはだしの時代から営々と生活を積み上げてきた、数え切れない節さんのような方々の、よりよく今を生きよう、とする意思の果てである。

 

沖縄の今、を共に生きることは、この実感なしにはあり得まい。

この記事を書いた人

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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