【第9回】沖永良部と芭蕉布と 著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

agarieakiko

2019/02/19

80歳が率いる島の工房

 

沖永良部は突然の雨。沖永良部島から鹿児島に向かう飛行機に乗る前に、2時間だけ時間があったので、「芭蕉布工房 長谷川」に連れて行っていただいた。雨なので、どこか室内で訪問できるところを探していた、ということもある。

 

雨の中、20分ほど車でお連れいただき、芭蕉布工房に着く。沖縄の伝統的芭蕉布を、ここ沖永良部の芭蕉を使って織り上げる。2019年現在80歳の長谷川千代子さん率いる工房である。

 

沖永良部は奄美群島に属し、大島紬を織る方は少なくなかったといい、千代子さんも、もともと、大島紬の伝統工芸士として大島紬を織っておられた、大島紬のプロ中のプロだったのだが、60過ぎてから芭蕉布を織り始めたのだという。

 

大島紬について多くを語る必要はあるまい。「大島」という着物がどれほど値打ちがあり、素晴らしいもので、憧れられている着物か、ということは、着物好きでなくてもご存知の方も多いと思う。

 

今ではほとんど見ることもなくなったが、50年くらい前にはどの町にも、質屋、というのがあった。お金がなくなると、物を持って行って、質種(しちぐさ)として、質屋からお金を借りる。「大島紬」は、質種としてよく知られていて、品のいい奥様で大島紬を持っていらしても、旦那が月末になるとお金を使いすぎて、キャッシュが足りなくなる、などという場合、大島紬を質種にしてお金を借りていた、という話は、何人からも聞いているのである。値の張る、良い着物として有名な織物なのだ。

 

 

大島紬の威力

 

着物のことをご存知の方にはいうまでもないことなのだが、値の張る、素晴らしい着物であっても、「紬」、ようするに糸を染めてから織る「織りの着物」は、どこまでいっても普段着の域を出ず、結婚式とか卒業式とかお茶席とかそういう「式」がついたり格式が高かったりするところに着ていける着物ではない。

 

そういう場では必ず「染の着物」といって、白生地を染めた、柔らかい着物を着なければならないことになっている。大島紬は値の張る着物ではあるが、正式なところには着ていけない、大変、贅沢な「普段着」なのである。

 

ほとんど毎日、着物、とりわけ仕事の時には必ず着物を着るようになって、もう15年になるのだが、着物を日常的に着始めると、改めてこの大島紬の威力というか、大島紬の素晴らしさというか、日常着としての快適さというか、すべてに圧倒されてしまう。なぜこの大島という「記号」が、着物好きの人に特別な意味を持つのか、よく理解できるようになる。羽のように軽いのに、冬は暖かく、夏は涼しく、着物も疲れないし、着ている方も疲れない。

 

着物は一日着ているとしわもよるし、なんとなく、着物が「疲れて」くる。一日の終わりにスチームアイロンをさっとかけて、衣紋掛にかけて、次の日、しまう、ということを、着物を日常着にしていると繰り返すのであるが、多くの着物は一日の終わりにはかなりしわがより、なんとなくよれっとした感じが手に取っただけでもよくわかる。

 

大島は丸一日くらい着ていても、実にぱりっと「元気」な感じがして、生地が疲れていない。着物で海外にもでかけるけれど、大陸間の10時間を超えるフライトに着ていっても、よれよれした感じにならない、頼もしい着物なのである。着物が疲れないだけではなく、着ている私も、この軽やかな着心地のおかげで、疲れない。完璧な着物だなあ、と思うのである。

 

 

芭蕉布との出会い

 

長谷川千代子さんは、この、素晴らしい大島の伝統工芸士であった。それだけで十二分に、プロ級のプロなのであるが、或る日突然、芭蕉布に目覚めたのだという。だいたい、お話を伺っていると、伝統工芸士であるのに、定年に近くなるまで、役場の仕事もなさっている。家族を支える中心的存在でもある。女の人ってたくましく多彩に生きられるんだなあ、と、しみじみと思う。

 

「役場に勤めていたんですけど、59歳で家族の介護をしようと思ってやめました。もともと、役場をやめて工房だけやっていきたい、とも思っていましたし。

 

で、どこだったかなあ、大きな新聞、朝日新聞だったかなあ、そこに三人の女優さんがお話をしている記事が出ているのを見たの。着物のお話をなさっていたのね。『あなたは芭蕉布持っている?』『いや、私はまだ持っていない。平良敏子さんの芭蕉布が欲しい』とかおっしゃっているんです。その記事で、沖縄で芭蕉布を織っておられる平良敏子さんの仕事を知りました。

 

この記事を読んで、なぜか、これだ、というか、この人に会いたい、と思ってですね。もう行くしかない、と思ったんですね。家族も行ってきたらいい、と言ってくれました。だから沖永良部から沖縄の平良先生のところに急いで出かけました。

 

平良先生の芭蕉布の工房に行ったら、京都の有名な問屋さんが買い付けにおいでになっているのね。大島を織っていた時にその問屋さんのことは知っていました。ああ、こういう有名な問屋さんがおいでになっているんだ、と思いました。

 

芭蕉布を買い付けに、こういう問屋さんがおいでになっている。大島はもう、供給過剰じゃないかと、ちょっと思っていたから、これからは大島だけじゃなくて、芭蕉布を織っていこう、と、その問屋さんの姿を見て、確信しましたね。

 

その頃もうすでに80歳くらいだった平良敏子先生は、一人一人に優しくて、ですね。あら、あなた59歳? ちょっと遅かったわねえ、と言われたんですが、平良さん、いや私は大島を織ってきたんです、伝統工芸士も持ってます、といったら、あら、あなた私よりすごいじゃない、芭蕉布は伝統工芸士はないから、私持ってないのよ、なんて言われて……。あなたには、では、芭蕉のところだけ教えてあげたらいいわね、あとは自分で出来るわね、とおっしゃってくださった。3年間通いました。

 

芭蕉布はね、芭蕉を育てるところから全部、自分でやらないといけないですからね、やる人が少ないんですよ。織るだけ、糸を取るだけ、ではだめだから。エラブ(沖永良部島のこと)にはハブがいないから、芭蕉の収穫をしやすい。沖縄本島ではハブがいるから、畑の周りを叩いて確認しなければいけないから、大変。

 

平良先生に、あなたはいいわね、ハブがいない、芭蕉を収穫しやすい、素晴らしいところで芭蕉布を織れるわね、と言っていただき、それが励みです。もう、私の人生は、出会いだけで導かれています」

 

 

いまも頭の上にのせて運ぶ

 

沖永良部と那覇の直行便ができたのは、2018年の夏から。つい先日のことである。それまでは沖永良部から沖縄へは、船で行くしかなかった。7時間くらいかけて、船で沖縄本島へ行き、また平良敏子さんの工房のある大宜味村喜如嘉まで、さらに5時間くらいかかった、という。

 

沖永良部から喜如嘉への道は遠かったはずだ。そこを、心躍らせて渡って行った千代子さんの姿を思うと、私までわくわくして胸がいっぱいになる。伝統は、一人の熱い思いによって担われていくのである。今や、沖永良部の名品として有名な、「沖永良部の芭蕉布」がこうして作られていくことになったのである。

 

長谷川千代子さんは、いまも日常的に、頭の上に物をのせて運ぶことがあるという。「ハシ」がないとのせられないわね、安定しないから、とおっしゃる。沖永良部で「ハシ」と呼ばれているのは、沖縄で「ガンシナー」と呼ばれる、藁(わら)をクルクルと丸めて作る、いわばドーナツ型の「頭上運搬用クッション」である。それを頭上にのせてから、荷物をのせる。

 

沖縄本島でもなんども聞いていたが、実際にどうやって作るのかを見たことはなかった。千代子さんは、藁、ないかしら、あら、あった、あった、と戸棚から稲藁(いなわら)の束を取り出し、ほんの5分ほどで、くるくると稲藁を丸めて、少しずつ止めていって、「ハシ」をその場で作ってくださった。

 

芭蕉布の伝承を一手に担う大島伝統工芸士の方が作り、最後のところをなんと貴重な芭蕉布で作った繊維でくるくると巻いて止めてくださったハシは、もう、宝物である。

 

長谷川千代子さんが5分足らずで、ささっと作ってしまった「ハシ」の写真。 下のピンクの部分は、本物の芭蕉の糸。
「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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