レジェンド声優・羽佐間道夫が語る「芸事」との出会い(#1)著:大野裕之
大野裕之『創声記-日本を話芸で支える声優たち-』

日本のテレビで、初めて声優による吹き替えで放送された海外ドラマは『カウボーイGメン』で、1956年のことでした。最初期には生放送で同時吹き替えが行われたといいます。以来、多くの海外ドラマや映画が吹き替えられ、日本の吹き替え技術は世界一と言われるまでになりました。いま世界的なアニメ/ゲームのブームにともなって、声優人気は何度目かのピークにあります。

 

今回は、声優の草創期を体験し、声優の歴史を切り開いてきたレジェンド=羽佐間道夫さんに、自身の来し方と声優の歴史、これからのことを存分に語っていただきました(全7回)。

 

インタビューの場所は、新宿の「思い出横丁」のとある中華料理屋さん。かつて、舞台俳優としての修行時代に、仲間と来ては演劇論を戦わせた、思い出の場所だそうです。

 

 

父親の声で「芸」と出会う

 

ーー羽佐間さんは赤穂浪士四十七士の間十次郎の末裔なんですね。

 

羽佐間 そうです。それで、江戸切絵図に羽佐間宗玄という漢方の御典医の屋敷が出てくるのですが、その8代目が曽祖父にあたります。親父の羽佐間昌は三井三池炭鉱の人事をやっていたので、私は社宅のあった熊本県荒尾市で生まれました。社宅と言っても、当時は石炭が「黒ダイヤ」と呼ばれた時代ですからね。もうそんじょそこらの屋敷じゃない大きなものでしたよ。

 

ーー当時鉱山の近くにはいろんな芝居小屋とかもあったんですか?

 

羽佐間 芝居小屋はちょっと覚えてないんですけど、三井の公会堂はありましたね。伊藤久男が来て「イヨマンテの夜」を歌ったり、「旅の夜風」の霧島昇がやって来たりね。

 

ーーじゃあ、羽佐間道夫さんの最初の芸事との出会いっていうのは、公会堂の歌ですか。

 

羽佐間 いえ、芸事との出会いということなら、うちの親父の朗読なんです。親父は朗読がすごく好きでした。町全体の電信柱にスピーカーが付いていて、十二時になると十五分か二十分だけ、そこから朗読を流すのです。それをうちの親父がやっていたんです。「人事部長の羽佐間です。今日は、誰それの作品をご紹介します」ってね。それだけは、すごく覚えてるんですよ。

 

ーーそれが羽佐間道夫のルーツなんですね。

 

戦争の空気を感じた子ども時代

 

ーー羽佐間さんがお生まれになった1933年と言えば、国内では小林多喜二が獄中死し、海外ではヒトラーが政権を握った年で、だんだん戦争の雰囲気が近づいてきていました。

 

羽佐間 そうです。戦争の雰囲気といえば、ヒトラー・ユーゲントが三池炭鉱に来て、交流会もありましたよ。本当に、惚れ惚れするような二枚目の青年ばかり、ダーッと並んでるんです。なんでこんな田舎に来るのかと思ったけど、今から思えば炭鉱の様子を調べに来ていたのかもしれませんね。交流会では、三浦環(羽佐間道夫の大叔母で、日本のオペラ歌手の草分けの一人)も来て『蝶々夫人』を歌ったと思います。

 

ーー他に、炭鉱時代の思い出はありますか?

 

羽佐間 親父が人事部長だったのですが、当時炭鉱夫は「手配師」が支配していた。その元締めで「清五郎」ってのがいてね。要するに、ヤクザですよ。そんな環境だから、お袋は枕元に短刀を持って寝てたの。

 

ある日、月の夜に雨戸がバターンと倒れて、月光を背に坊主頭の清五郎が立ってる。血の滴る刀を下げて、「今羽佐間を斬ってきた」と言いながら、飛び込んできたんだって。だけど、母は、その手は食わないと冷静にお手伝いさんを呼んで、「お茶を」と言いながら酒を出したらしい(笑)。清五郎は、子供にも「ボンボン」だとか言って金を配るようなやつで、母は「貰ったらだめ!」って叫んでました。そんな環境に小学校二年生までいて、1939年に父が東京に転勤になって、高輪の実家に住みました。

 

ーーその頃、なりたかった職業というのはございますか。

 

羽佐間 高輪で白金小学校に来て初めての学芸会で、一人で講堂で朗読をやったんですよ。小学校四年生の時でした。教科書に載ってた「カチカチ山」の、たぬ六(ろく)、たぬ七(しち)、たぬ八(はち)っていう兄弟の話を。そしたら、すごく評判になりましてね。親に言わせると、熊本の幼稚園でも何かやってたらしいんです。やっぱり電信柱から聞こえてきた親父の声に憧れていたのかもしれないですね。

 

ーーでも、その直後に戦争が始まってしまう。

 

羽佐間 親父は騎兵隊として出征になったのですが、痔が悪かったのですぐに除隊になった。痔の人を騎兵隊にするのもおかしな話ですが(笑)。周りが「なんで帰ってきたんだ」と冷たくいう中、祖母は息子が帰って来て「ありがたい」と泣いて喜んでいました。でも、その後駒込に引っ越した時、親父は結核で死んでしまうんです。

 

その後、しばらくして僕も疎開になりました。戦争が始まって2年ぐらいのことです。長野県の上田の山の奥に田沢温泉に疎開させられて、東京が恋しくて、夜に便所の窓から脱走するんだよね。でも、一キロもしないうちに、先生が向こうに立ってるんだよ。道は一本道しかないから(笑)。それで、すぐに連れ戻されて。

 

ーー疎開は子どもだけで行くのですよね?

 

羽佐間 そう。親と別れるから寂しいんですよ。

親友の「斉藤くん」に教わった大切なこと

 

羽佐間 疎開のときに、すごく僕を刺激したって言うか、僕の人生観を一つ作り上げた経験があります。親友だった気の弱い「斉藤くん」の話です。

 

そういう子どもだけの集団では、必ずボス猿が出てくるんです。で、そのボス猿がね、何でも人のものを取ろうとするやつでした。当時、もう東京は空襲になってた時でした。疎開はね、毎日悲劇が襲ってくるんです。僕らの教室からずっと廊下をずっと伝って行くと、先生たちがいる別館がありました。必ず週に一遍誰か呼ばれるんですよ。「先生に呼ばれる」というのがどういう意味か、もうみんなが勘で分かってるんです――つまり「親が空襲で死んだ」ことをそこで告げられるわけ。それを聞かされた小学生が、冷たい廊下をワンワン泣きながら部屋に帰ってくる。そんなことが毎週繰り返されていました。

 

僕の親友だった気の弱い斉藤くんには、東京からお母さんが大豆に砂糖をまぶしたものをよく送ってきていました。優しいお母さんだよね。いつも、斉藤くんは大豆の箱を抱えて、大切に大切に、隅っこでボス猿に見つからないようにちょっとずつ食べていた。

 

ところが、ある時、彼が先生の部屋に呼ばれたんです。そこで、大豆を送ってきてくれていたお母さんが亡くなったと聞かされた。それで、真っ赤な顔をして泣きはらして帰って来て、フっと見たら、大豆がない。彼がいない間に、ボス猿がみんな食べちゃったんだ。

 

その時にね、彼は初めて、猛然たる勢いで、そのボス猿に飛びかかっていった。あの気の弱い斉藤くんが。みんなも加勢して、ボス猿をやっつけた。その時初めて、勇気を持てばあんなに人間が変化するものなんだということと、威張っているやつってのは本当は大したもんじゃないっていうことを、僕は教わりました。

 

ーー本当に人生に大切なことを教わったんですね。

 

(第2回に続きます)

 

写真= 髙橋智英/光文社

 

羽佐間道夫(はざま・みちお)
1933年生。舞台芸術学院卒。劇団中芸を経て、『ホパロング・キャシディ』で声優デビュー。以来、声優の草分けの一人として数多くの名演を披露。代表作に、シルヴェスター・スタローンを吹き替えた『ロッキー』シリーズほか、チャールズ・チャップリンの『ライムライト』、ディーン・マーティン、ポール・ニューマン、ピーター・セラーズ、アル・パチーノの吹き替えなど多数。2008年、第2回声優アワード功労賞受賞。

 

創声記_羽佐間道夫編

著:大野裕之

脚本家・日本チャップリン協会会長
チャップリン家の信頼もあつく、国内外のチャップリン公式版Blu-rayを監修。羽佐間道夫氏発案の「声優口演ライブ」の台本を担当する。著書『チャップリンとヒトラー』(岩波書店)で2015年第37回サントリー学芸賞受賞。映画脚本家としては、2014年『太秦ライムライト』で第18回ファンタジア国際映画祭最優秀作品賞受賞。

写真= 髙橋智英/光文社
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