第一章 二〇一九年 春 タビケン(1)
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/06/26

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第一章
二〇一九年 春 タビケン(1)

 

 

 姉たちに選んでもらったスプリング・コートに、肩からかけたトートバッグ。ジヒョンは、神奈川県にある医科大学の購買部の二階にいた。
 ようやく叶った研修生としての日本での新生活が、今週より始まった。
 購買部のある棟の、階段を上がった二階の奥はカフェテリア、窓からの陽射しが、新入生たちを歓迎してくれているように眩しい。サークル活動の勧誘ブースがずらりと並んでいる。
 勧誘の看板にある文字は、大体わかる。
〈ゴルフ同好会〉
〈テニス部〉
〈スキー部〉
〈クイズ研究会〉
 ジヒョンには、どの看板も未知の時間への扉だ。扉を開けた向こうには、きっと新しい友達がいる。
「やった! 入部決まりね」
「いや、ちょっと考えさせてくださいって」
 押し問答する学生たちの話し声も、なんとかそのまま理解できることに、ジヒョンはひとまず安堵する。韓国で、毎日寝る間も惜しんで通った日本語学校での勉強は、無駄ではなかった。
 日本に着いたなら、やってみたいことは、何かしらの武道だった。剣道、柔道、弓道。「道」とついた武芸には、日本人の心を感じる。それぞれのコスチュームも独特で、憧れがあった。

 

 

 さっそく見つけたブースの前で立ち止まり、そこに飾られた等身大のパネルを見つめ、勇気を出して声をかけた。
「この、キュドウの練習は、どこでしますか?」
 紺色の袴に胸当てをつけた男子学生が、案内台の内側に座っている。机の上にはしなやかな竹弓もあって、それは手を伸ばしたいほど美しく見える。
「あれ、もしかして日本人じゃない? どこからの新入生?」
「すみません。韓国からの研修生です。もう四年生です」
 やはり、留学生だとすぐわかる片言なのだとジヒョンは少し落ち込むが、もう一度心を落ち着かせて訊いてみた。
「どこですか? 練習場」
 大学生活を順調にスタートさせるには、どの国であってもまずサークルに入ることだと、姉たちから聞かされていた。今朝もカカオトークには、
〈ジヒョン、ファイティン♪〉
 とのメッセージが届いていた。韓国ではSNSはカカオトークがメインだ。日本ではラインを使うと聞いて、さっそくアプリも入れてきたが、トークを送り合えるような友人は、いつになったらできるだろう。
 もし誰でもいいから、一番にアドレスを交換する相手ができたら、生涯の日本の友達になってもらおうと決めた。少なくともそんな賭けをしたことを、いつか伝えてみたい。
 弓道部の男子学生は、机の上に案内の地図を出し、キャンパスから弓道場までの道のりをペンの先で示した。知らない駅の名前が続き、電車と徒歩を使って、キャンパスからは大体三十分ほどかかるという。
 自宅からはさらに遠ざかる方向であるとわかる。他の武道もあたってみようと目で探し始める。
〈初心者大歓迎〉
 剣道部にはそう書いてあるが、すでに仲間たちで和気藹々している感じにも少し気後れがあった。
 ほとんどのブースを見て回り、もう一度弓道部の前を過ぎようとしていたところ、
「ねえ、あなた、どこの国から来たって言ってたの?」
 と、二つ隣のブースから、声というより長い腕がひらひらと伸びて手招きした。薄手の黒いタートルネックのセーターを着ているのに、腕の細さと長さがずいぶん目立った。
 黒髪と同じように艶やかな瞳が、こちらをくるくると見つめていた。好奇心を隠そうともしない少しの馴れ馴れしさに、ジヒョンは懐かしいような不思議な気持ちになった。もしかしたら、彼女も韓国から来ているのだろうかと思ったほどだった。

 

 

「あの、韓国ですけど、これは何サークルですか?」
 すると、早口で答えた。
「へえ、研修生って言ってたよね。だったら、同じ四年くらいかな。ここはね、タビケンって言うの。旅行、つまり旅の研究会。海外からの人。大歓迎なんだけど、入らない?」
 と、一気に畳み掛けられて戸惑っていると、いきなり握手の手を伸ばされた。
「ね、決まり。そんなに忙しくはないから、運動部と兼部の子もいなくはないよ。まあ、医学部そんなに甘くはないけど。とにかく、部室だけでも覗いて行ってよ」
 勢いに釣られるように彼女を見つめていると、
「私は四年の宮本菜々子、あなたは?」
「ソン・ジヒョンです、私も四年ですよ、菜々子さん」
「同じ学年なんだから、菜々子でいいよ」
 黒い目の放つ光が、ジヒョンの目の奥へと届く。瞳がまるで潤んだかのように輝き、両方の手でジヒョンの手が握られた。ほっそりした長い指だった。少しひんやりとして湿った感触が、逆に自分の手が十分に温かいことを伝えてきた。

 

 

 その足で、購買部の棟から一旦外へ出て、大学の新しい建物の階段を降りた半地下にある、サークル棟へと連れて行かれた。
 階段には大きな油絵などのアート作品が並んでいる。どの国でも、こんな景色はよく似ている。
 文化系サークルの部室が順に並ぶ案外いい場所にタビケンは位置していて、扉の前には「旅行研究会」の看板がある。その下は一部くりぬかれ、地球儀がはまっていた。
 ジヒョンは驚いて、指で触れてみる。
「すごい、よく回ってる」
 と、声をあげるのも気にせず、菜々子がすかさず扉を開ける。部室からは、コーヒーの香りが一気に溢れてきた。
「こんにちは、新入生一号ね。研修生なんだってね。もちろん構いませんよ」
 すでに菜々子から連絡が入っていたようで、ゆっくり立ち上がったのは、ショートカットに金色のフレームのメガネをかけた、端正な顔立ちの女子学生だった。コーヒー・サーバーを片手に、問いかけてくる。
「これはね、フローレス島のコーヒー。さて、タビケンらしく質問してみよう。その島ってどこの国でしょう?」
「いきなり、クイズですか?」
 と、慌てながらも、それなら苦手ではないと、ジヒョンは先ほどの地球儀を思い浮かべる。韓国の自分の部屋でも、よく地球儀を回しながら世界の地理や歴史を勉強してきた。
「知ってます。コモド・ドラゴンがいます。だから、インドネシアです」
「おう、優秀だ」
 と、彼女は景品のようにそのコーヒーを注いで、手渡してくれた。本当はコーヒーは少し苦手だったけれど、カップから上がる湯気や香りが、ジヒョンにはやはりすべて歓迎に思えた。
 部室内には他にも、海外のお菓子の箱やラム酒のボトル、一風変わった人形などが棚の上に所狭しと並んでいる。壁のボードには、旅行写真がぎっしりと貼られていた。

 

次回につづく(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使も務める。
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