第一章 二〇一九年 春 タビケン(2)
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2020/07/03

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第一章
二〇一九年 春 タビケン(2)

 

 

「彼女が今年の部長で、佐々岡春(ハル)さん。二つ上の六年生で、この部では一番のヒュージ・トラベラーなの。でも、ハルさんもいよいよ国家試験の準備ですよね。さすがに旅はそんなにできないでしょー?」
 菜々子の、先輩に対する遠慮のない話し方に驚きながら、
「ヒュージ、ああ、本当にいっぱい、旅した、ですか?」
 ジヒョンがまた少し片言になると、菜々子は黒目がちの目を動かしてくすっと笑い、自分のカップにもコーヒーを注いだ。
「よかったら、一緒に楽しもうよ」
 そう言って近づいた菜々子からは、今度は何やら甘い香りと、懐かしい姉たちのような温もりが伝わった。
 と思ったのも束の間、スマホの着信音が鳴り、菜々子が窓際で通話を始める。ものすごく早口だ。
「はいわかったって。少しも待てないわけ?すぐ出るってば」
 その様子を見ていたハルが、言う。
「口が悪いよね。菜々子は、旅っていうより、普段からいつもどこかに駆けてくみたいな子だから、あんまり振り回されないようにね」
 菜々子の方もハルの話も聞いていたようで、こちらを見て舌を出している。
「で、あんたは今車? バイク? オッケーいいよ。じゃあ、西玄関でね」
 あんたと呼ぶ相手は彼氏だろうか。
 ジヒョンはさっそくその場で、コーヒーを置いて、姉たちとのカカオトークの画面を開いたが、
「じゃあ、入部決まりね。ジヒョン。そうだ、よかったら、今から一緒にドライブに行く?」
 と、いきなり誘われた。
「ドライブ、どこへですか?」
「そんなのわからないよ。心の向くままに」
「あの、今日はやめておきます。まだ学校をよく見ておきたいし、少し忙しいですから」
「オッケー! じゃあまたね」
 扉を開けて出ていこうとしたとき、ジヒョンは自分から頼んでいた。
「あの、ライン交換してもいい?」
「もちろん。じゃあ、ハルさんも」
 菜々子が赤い革のカバーのかかったスマホを出し、ハルは透明なケースのかかった、白の大きめのスマホを出した。
 ジヒョンは、自分の水玉のカバーが、少し子ども染みていると感じて恥ずかしくなる。本当だったらこんなときは年上のハルから頼むべきかとも思ったが、菜々子と最初のアドレスの交換をした。続いてハルとも。
 最初の日に二人と交換。
 もしかしたら一日で何十人も交換することになったりして、などと考えていたことに照れてしまう。
 菜々子はおどけたように唇を突き出した顔のアイコン、ハルは夕陽の中の横顔のシルエットだった。

 

 

  ジヒョンは結局、武道系サークルにはそれ以上コンタクトはとらなかった。
 帰りの電車に揺られながら、カカオトークを開く。
〈サークル、タビケンっていうのに入りそう〉
〈ジヒョナ、いきなり気に入ったの?〉
 上の姉はいつもの愛称でそう呼びかけ、少し心配そうに書いてきたが、下の姉は、
〈スタートいい感じじゃん!〉 
 と、励ましてくれた。
 二人の姉は、ジヒョンより十歳前後も年が離れており、半分お母さんが三人いるような環境で育った。ジヒョンは、典型的なマンネ。韓国語で言うところの末っ子だ。姉たちとは、六歳から一緒に育った。それまでは、ジヒョンは日本の世田谷で両親と育ち、姉たちは学校の寄宿舎にいた。
 六歳から一緒になると、姉たちはぬいぐるみのようにジヒョンを構った。見送りのキンポ空港でも盛大に泣かれて困ってしまった。
 日本への留学を、ジヒョンは十四歳のときから目標にしてきたのだった。
 家族では何度も話し合いになり、深夜まで質問責めにされることもよくあった。
 なぜ、わざわざ日本へ行きたいのか。せっかくソウルの医科大学に合格したのに、どうして留学が必要なのか? 日本の何がいいというのか。父は、特に納得しなかった。日本を撤退した理由をはっきり聞いたことはないが、何かしら酷い目にあったのだと聞いている。母もそれ以来、日本に行きたいとはただの一度も言わない。
 ジヒョンにも、自分の思いは言葉にできなかった。

 

 

 そもそも、六歳までの日本での記憶がはっきりとあるわけではなかった。むしろ日本のアニメーションやゲームといった最近のカルチャーには、姉たちの方がジヒョンより詳しいくらいだ。
 ジヒョンが強く惹かれたのは、もう少し古い浮世絵や、大正時代の竹久夢二の絵など。特に十四歳のときに、カンナムの美術館で偶然に見た夢二の絵の前では、罠にかかったように足が止まった。全身に電流が走ったようになり、身動きができなくなった。
 黒猫を抱えた和服姿の女性が、こちらをまっすぐ見つめている。芯が強そうで、触れたら毒が溢れ出してくるような怖さは、魅力的だった。
 一緒にいた友達も、ジヒョンと見比べながら、指をさした。
「この絵、なんかジヒョナに似てるね」
 言われたから、余計にそう思い込んだのかもしれないが、以来夢二の絵には強く惹かれる。
 医科大学を卒業したら、ジヒョンはすぐに結婚することになっている。家族が馴染んできた開業医の息子と婚約が決まり、ジヒョンは学費を負担してもらっている。そんなこともあって、留学に賛成してくれたのは、意外にも母だった。
「あなたは、言い出したら聞かない強い子。行ってきたらいい」

 

次回につづく(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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