第一章 二〇一九年 春 チャンジャンミョン(1)
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2020/07/10

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第一章
二〇一九年春 チャンジャンミョン①

 

 

 電車が地上に乗り上げ、窓に映る線路越しには、黄色い菜の花が咲き乱れていた。
 ジヒョンにはその色は、どこか懐かしかった。幼稚園まで住んでいた世田谷の数少ない思い出の一つだ。
 幼稚園に一緒に通ったタケルくんは、元気かな、と思う。紺色の制服に身を包んだ背の小さなタケルくんとジヒョンは、幼稚園のとき、いつも一緒にいた。日本では珍しい名前の韓国の女の子が楽しくいられたのは、小さいけれど賢いタケルくんが、いつもそばにいてくれたからだ。幼稚園で写した写真の中の二人は、いつも、少し恥ずかしそうに手をつないでいる。
 タケルくんは、電車の運転手さんになりたいと言っていた。
 心のどこかでは、もしまた日本に行くことができたなら、探し出してみたいとずっと思っていた人。留学のためにがんばれたのも、実はタケルくんのおかげだったりして。どうあれ、医科大学に入学するためよりもっと、留学のための勉強をした。自分一人との闘い。体の奥底から血がたぎったように力が湧いた。
 急に空が曇り、電車の窓を大粒の雨が打ち始めた。景色が灰色になる。
 雨の音。
 聞こえないはずの雨音を、手繰り寄せる。
 雨が降ると、決まってチヂミが食べたくなる。韓国人なら、みんながわかる感覚。
 雨粒が窓を叩く音と、あの、ぱちぱちと鉄鍋で弾ける音はよく似ているから。
 お腹が空いたなとジヒョンは思う。一日の緊張が緩んだのを感じ、少し眠ってしまった。まだ慣れない名前の最寄りの駅のアナウンスに気づき、慌てて駆け下りた。

 

 

 黒焦げになった鉄板を、幹事の四年生たちが片付けていた。
「私も一応、四年だよ」
 ジヒョンはだいぶ、タビケンに馴染んできた。その上で真面目に手伝いを申し出るが、
「いいの、ジヒョンは今回は新人なの」
 と、ダンガリーシャツの袖をめくった威勢のいい菜々子に、追いやられてしまう。
 この春、タビケンに入部したのは、男子三名に、女子三名。ジヒョン以外は新入生たちだった。
 新人歓迎のバーベキュー大会が海辺で企画されて、午後から肉やソーセージ、かぼちゃなどが振る舞われた。
 小瓶のコーラや上級生には缶チューハイなどが次々手渡されていき、砂浜では砂像アート大会など、様々なゲームも企画された。
 ハルは、重そうな一眼レフを手に、写真を撮りながら過ごしている。
 タビケンの活動は思っていたより本格的で、その歴史も半世紀を超えていると部会で紹介された。一年に二回は国内の旅、また夏休み中には海外旅行が計画され、どの旅でも現地の病院を訪ねるのが決まりだという。
 武道とは違う、自分では思ってもみなかったサークルだったけれど、今しかできない時間の過ごし方のようにも感じられたのは、菜々子やハルの持っている自由な雰囲気のせいもあったろうか。
 旅費稼ぎのためにも、タビケンの学生たちはアルバイトも盛んだ。たとえばハルは旅行会社向けに旅のレポートを書くのをバイトにしているし、菜々子は夜にバーテンダーのバイトをしている。
 部会を重ねるうちに、そんなみんなの日常も少しわかってきた。
 今年のタビケンのテーマは、「大航海時代を追いかけて」。
 行き先はまだ決まっていないけれど、課題図書にはダーウィンやスパイス戦争をめぐる本などがあがっている。

 

 

 片付けが終わった四年生たちが、クーラーボックスからデザートのアイスキャンディを配ってくれて、皆で海に沈む夕陽を見つめながら食べた。
 菜々子が隣にやってきて、並びながら食べ終わったキャンディのバー越しに夕陽までの距離を測量するように見ている。
「日が暮れると、まだ寒いね」
 今日は半袖のTシャツにショートパンツ姿にひっつめ髪だったが、今はおろした髪に跡がついて、潮風になびいている。厚手のパーカを羽織っているのに、震えている。
 はじめて握手をしたときにも、ずいぶん冷たい手をしていた。
「よかったら、これ使って」
 首に巻いていたストールを渡そうとすると、菜々子は手を突き出して苦笑する。
「人のものは取らないよ。だけど、ジヒョンってそういうとき、すごく優しいよね。きっと、韓国の暖かいご家族の中で育ったんだろうな」
 異論はなかったが、だったらむしろそれを口にする菜々子の家族についても訊いてみたくなった。そういう質問は、日本では失礼なのかもしれないから、遠巻きに訊いてみた。
「菜々子のお父さんは、お医者なの?」
「お医者って」
 菜々子は腹を折るように笑った。
「医者、お医者さん。まあどっちでもいいけど、うちは違うよ。実家は、旅館なの」
 地名も言ったが、ジヒョンには覚えられなかった。
「母もいつも忙しくて、ほとんど放っておかれた、かな」
「ごめんね、私、訊きすぎた?」
「全然。私はね、母の妹って人のところによく預けられていて、その叔母の旦那さんが大学病院の医者だったの。すごくいい人だったよ。だけど、パンクリアス、膵臓がんで亡くなってしまって、叔母からは菜々子がいつか医者になってくれたらいいなって言われながら育った」
「オモ。そうだったんだ」
 思わず、母国語が漏れる。
「それじゃあ、旅館はどうするの?」
「弟がいるから、大丈夫なんだ。ジヒョンのところも医者じゃなかったよね。医学部で家が医者じゃないうちらみたいの、珍しいよね」
 菜々子もたくさん勉強してここにたどりついた人なのだと、ジヒョンははじめて感じた。

 

 

「ねえ、そう言えば幼馴染みの男の子のこと、どうなった?」
 いつもの菜々子らしく、こちらを覗いてきた。
 はじめての部会の自己紹介のときに、ジヒョンはタケルの話をした。
 日本でしたいことを訊かれて、竹久夢二とタケルのどちらを話すか迷った末に、幼稚園の幼馴染みを探したいと口にした。そんなとき、ちょっと甘えて見せる自分のマンネ気質が出る。
 すぐに皆が話に乗ってきてくれて、
「今ならインスタとかで、がんばれば見つかるんじゃない?」
「何なら、やってみようよ」
 と盛り上がった。
 菜々子などは、黒い瞳を動かしながら、
「世田谷なら、探しに行ったほうが早くない?」
 と、今にも飛んでいきそうな勢いだった。
「ああは言ったけど、本当に見つけるのも怖い気がして、まだ何もしてないよ」
 なんだ、意気地なし、とからかわれるかと思っていたら、
「それ、少しわかるよ」
 菜々子はそう言って、髪を耳にかけた。
 どんなときにも、長い手足がいかにも自由そうに動いていた。
「今度の部会の後、私バイト入っていないから、タケルくんを探すのどう? 私がジヒョンの部屋に行くよ。それ考えたら、わくわくしてきた」
 こちらから誘ったわけではないのに、菜々子が部屋に来るという。そうやって遠慮しないでどんどん詰まっていく距離感も、やはりジヒョンには懐かしかった。
 彼氏と会うとか、実家に帰るとか、いろいろ優先することがありそうなのに、菜々子はすごくいい思いつきのようにそう言った。
 なのでその日を、ジヒョンもとても楽しみにしていた。
 母が送ってきてくれたインスタントのチャジャンミョンを準備して、韓国の焼酎も冷やしておいた。

 

次回につづく(毎週金曜日更新)

photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使も務める。
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