第一章 二〇一九年 春 チャンジャンミョン(2)
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2020/07/17

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

 

 部会が終わったので、菜々子の腕をつんつんとつつくと、
「どした?」
 と、驚いている。
「あの、来るでしょ? 私の部屋」
「そうだ、今日って言ったっけ」
 すっかり失念していたようだった。
「ごめん、もう彼氏がそこに来てるの。今度絶対埋め合わせするね、ほんとごめん」
 両手を顔の前に合わせて詫びている。
 その様子を見ていたハルが、小さく首を横に振って苦笑している。どうも菜々子にはよくあることのようだ。
 部室から飛ぶように出ていった菜々子の背が地上に上がるのを半地下の窓から見上げながら小さくため息をついていると、ハルがコーヒーをいれてくれた。今度は遠慮せずに、砂糖とミルクも入れてもらった。

 

 

「だけどジヒョン、だいぶ慣れたみたいだね」
 ハルにそう言われると嬉しくなる。
「私はね、小さいとき父の赴任先を一緒に回ったので、何度も知らない国で過ごしたんだ。小学校の頃は、一日中誰とも話さない日もあったよ」
 ジヒョンは、カップを両手に持ち聞いている。
「だけどあるとき、別のクラスに似たような見かけの子を見つけた。いつか困ったら、その子に話しかけようって、お守りみたいにしてた」
「ハルさんの、子ども時代ですね。その人、日本人でしたか?」
 そう呟いて、甘いコーヒーを口に含む。
「わからないまま、また学校を離れちゃった。中国人なのか、ジヒョンのような韓国の子だったかもしれない。日本人じゃないとわかるのが怖くて話しかけられなかった。だけど、気づいたらいつしか私にも、友達ができてた」
 ジヒョンの記憶は、たちまち六歳の頃に戻る。
 いきなり祖国に帰り、小学生になった。家では韓国語だったから言葉には苦労しなかったけれど、そこにいる子どもたちの砕けた雰囲気に、圧倒された。父や母が祖国に戻って安堵しているそばで、ジヒョンは一人、言葉にできない戸惑いを抱えていた。そこにはもう、自分に寄り添ってくれるタケルくんもいなかった。
 姉たちとはすぐに馴染めたが、学校生活ではなかなか友達ができず、虚しさを埋めるようによく勉強した。
 中学、高校と、成績は学年でトップクラスだった。宗家がはじまって以来の秀才だと、親戚が大騒ぎになった。
 医者になりたかったというよりは、学校や塾の進めるままに医学部を受けた。日本へ留学するための良いチャンスのようにも思えていた。まさか、医学部に入ったとたんに、許嫁まで決められるとは思っていなかったのだが。
 許嫁のミンソクの実家は、宗家が皆世話になってきた小児病院を経営している。ミンソクは医学部には進学せずに経営学を学んだので、医者を継ぐのはジヒョンになる。真面目なジヒョンだからと、留学も支援してくれた。そんな彼は今、軍隊に入っている。

 

 

 部屋に戻って、一人でもチャジャンミョンを作ろうかと迷っていると、軽快なラインの通知音が鳴った。
 菜々子からだ。
〈ジヒョン、今日は本当にごめん。よかったら、今からでも向かいたいんだけど〉
〈彼氏はどうするの?〉
〈平気、こいつは置いてく〉
 ジヒョンは、スマホの向こうから風が吹いてきたような心地よさを覚え、返信した。
〈よかったら、二人でどうぞ。お構いはできませんよ〉 
 と、書いた後半の文を消して、書き直した。
〈おいしい韓国料理、作る〉
〈やった!〉
 返信は一瞬で届いたから、きっと菜々子の独断で決めたのだ。
 到着も早かった。マンションの一階にオートバイのエンジン音が響き、菜々子と彼氏、関謙太はヘルメットを抱えて降りてきた。
 菜々子の後ろをついて、ぺこりと頭を下げた謙太は、二つ年下で他大学の理工学部の二年生だそうだ。見かけは菜々子とよく似合っていて、長身ですらりとしているが、何かと菜々子にやり込められている。
「なにこれ、美味しそう。そうだ、ケンタ、ちょっと飲み物でも買ってきてよ」
「了解! 適当に買ってくるね」
 革のジャンパーを着たケンタは菜々子に頼られるとなんでも嬉しいようだ。部屋を出ていくと、菜々子は窓から見下ろし手を振った。「二人は、どこで知り合った?」
 韓国の国民食、チャジャンミョンを皿に盛り付けながら訊くと、菜々子が指でつまむ。
「黒!」
「食べるのは、はじめて?」
「見たことすら、ないよ。あ、ケンタはね、
バイト先で。私、弟いるから、たまに重なるんだけど、あれでもなかなかうまいの」
「え、何が? 何がうまいの?」
「今のは冗談だから聞き流してよ! ケンタ、なんでもうまいよ。料理もなかなかだし、検索もうまいから、タケル? だっけ。見つけられるかも」

 

 

 両手いっぱいに飲み物やつまみを抱えて帰ってきたケンタと三人でチャジャンミョンを囲んだ。二人は大層盛り上がっている。
「なんだこれ、黒! うま! ジヒョンさん、この家通っていいっすか?」
「ちょっと、私のジヒョンに馴れ馴れしくすんな」
 男の子が部屋にいる。このことは、心配性の姉たちにも伝えないことにした。
 それにしたって、料理が黒いだけでこんなに笑えるなんて、作ってよかったとジヒョンは思う。
 その後で、ケンタが買ってきたビールに韓国の焼酎を合わせて弾けさせるバクダン酒をやって見せた。ケンタは運転手だから諦めたが、菜々子も面白がって飲んでくれた。
 今日を楽しみにしていたのは本当だが、実は母へ訊いてみても、タケルの苗字すらわからなかった。世田谷にある〈さくらの木幼稚園〉としか、わからない。
 ただそのとき母は、自分たちが住んでいた家の住所が書かれた、母子手帳の写真を送ってくれた。日本でもらった母子健康手帳、表紙にはお母さんが赤ちゃんを抱っこした絵。
 父とは違って、母は日本語がうまく読み書きできないので、母の韓国語のメモがところどころにある。日本にいる間は、幼稚園との連絡などはすべて父が行っていた。
 生まれた病院も書かれている。
 高山産婦人科医院。
 家から幼稚園は子どもの足で歩いても十分とかからず、その途中に生まれた医院もあったらしい。ジヒョンが小さいうちは、産院の先生がよく面倒を見てくれたと聞いているから、その医院だろうか。
 ジヒョンたちの住まいは、当時すでに古かった一軒家の借家だったが、同じ町内だったタケルの家は当時の新しいマンションだったはずだと、カカオトークには書かれていた。
「これしか、お母さんは、知らない」
 スマホの画面を菜々子らに見せる。
「苗字がわからないとなると、SNSでは無理か。幼稚園で苗字、訊くところからだね」
 ケンタがそう言ったとき、菜々子はえ?  え? と、二度も声を引きつらせた。胸に手を当てて、尻餅をついた。
「誕生日、一日違いだよ。ジヒョンと私」
「うわ、本当に?」
「似た名前の病院だった気もするんだけど、さすがに気のせいだよね」

 

次回につづく(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使も務める。
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