第二章 ナンシロ ナンシロ(2)サーちゃん
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/07/31

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第二章 
ナンシロ ナンシロ(2)サーちゃん

 

「もしかして今の電話って、ジヒョンの幼馴染みの件?」
 タビケン同期の、くせ毛の男子が訊いてくる。実習帰りなのか、白衣姿だ。彼の家は六代続く神奈川の医者である。
「そう、タケル探しの片棒を担いでるの」
「なんだよその言い方、良いことしてるんだろ?」
 小さく笑いながら、くせ毛を触っている。
「ジヒョンはいい子だよね。あんまり韓国人っぽくないっていうか。正直、今までちょっと苦手意識あったから」
「何が韓国人っぽくて、何が苦手なわけ?」
 ジヒョンと親しくなった今、まるで日本人が皆そうであるとでも言いたげな口ぶりに、心の針が触れた。

 

 

「なんだよ、怒るなよ。素直に言っただけじゃん。韓流ドラマとか見てもさ、すぐ人が泣いたり叩いたりするじゃん」
 そういうエキセントリックさは、自分もどこか苦手としてきたのは確かだった。けれど、ジヒョンといてそう感じたことはない。そんなことを見定めようと、恐る恐る探りを入れる気もない。
「誤解しないでほしいわ。幼馴染みを探しに来たとかさ、タビケンらしいし。一つのロマンを探し続けるジヒョンちゃん」
 そのからかい口調に、腹が立たないのは、くせ毛の不思議な魅力でもある。
 むしろ、ジヒョンの切れ長二重の目がたたえる、情熱を帯びた光を一瞬思い起こさせた。
「見つかるといいよね。私もタケルに会ってみたい」
 菜々子はそう言いながら、珍しくコーヒーをもう一度落とすことにする。いつかの代の先輩が置いていった、ペルー製のコーヒーミルのレバーをゆっくり回して、豆を挽いた。コーヒーを淹れる前から豆の香りが立ちのぼり、こうした時間そのものを味わう満足を、自分はこれまでよく味わわずに来たようにも感じた。
 ジヒョンが探したいのは、幼馴染み。
 探し出してどうするのだろう。
 彼女にはもう婚約者がいると聞いている。幼馴染みと恋をしたいわけでもなさそうで、だったら、何を手繰り寄せたいのだろう。
 立ち止まるのも、過去を振り返るのも、菜々子には無駄な時間に思えて、ずっと苦手なのだ。
 そう言えば、もう一つ宿題をほったらかしたままだ。産院の名を確認しておかねば。
 挽いた豆をコーヒーメーカーにセットすると、同期のくせ毛に言う。
「特別美味しいコーヒー淹れておいたから、飲んでいいよ。私、もう行かなきゃ。じゃあね」

 

 

 肩からレザーの縦長のショルダーバッグを下げて、廊下に飛び出る。
 一瞬、母に訊いてみようかとも思ったが、歩きながらコールしている相手は別だった。
「あら、菜々ちゃんね。ようやく声が聞けたわね」
 叔母さつきの、少し掠れたふくよかな声が返ってきた。
「ごめんね、医学部は毎日、忙しいよ」
「元気そう、よね?」
「うん、元気にはしてるよ」
 そう言って言葉を止めると、ほんの短い間なのに、さつきは少し心配そうに問いかけてくる。
「何か、あったのかしら?」
「サーちゃんなら、私が生まれた病院知ってるかなと思って。世田谷の産院の名前を知りたかったんだ」
 小さい時から叔母さん、ではなくサーちゃんと呼んでいる。
 珍しく、沈黙があった。続いて、こう返ってきた。
「どうして、知りたいの?」
 菜々子は、咄嗟に小さな嘘をついた。
「今大学でね、自分の出生時のレポートを出す課題があってね」
 出生時のことを調べるなど、大学で出す類のレポートではない。小学生の時なら確かにそんな宿題もあった。生まれた病院やら、時間帯、新生児の頃の特徴など、医学的な見地からではなく、家族の思い出の中の自分の出生をまとめる宿題だった。はじめて言葉を発した時期や、その内容なんかも。
 湯河原で、ノートと鉛筆を持って宿題のための聞き取りを始めると、母は多少は懐かしむように、産まれたのは世田谷の病院であったことや、その近くに菜の花が咲いていて、女の子なら菜々子と名付けると決めていたことなどを話してくれたが、思えば自分が生まれたのは初夏であり、なぜ世田谷の病院で出産したのかも今に至るまで訊かずにきたのだった。
 いつもお腹にいた時から「ななちゃん」と呼びかけていたからか、はじめて発した言葉は「なな」であったと母が答えたのは覚えている。

 

 

 電話の向こうでシェパード犬が吠えていた。
「ノー、ロン、シット」
「ロンも、元気そうだね」
「もうすっかりおじいちゃんだけどね。菜々ちゃん、聞いてよ。犬もね、白髪になるのよ」
 白髪と言うなら、さつきの髪はある時から真っ白になった。それを無造作に一つに束ねている。叔父の看病をしていた頃より、叔母の髪からは、病人に自分の生命力を分け与えているかのごとくメラニン色素が抜けていった。母はよく、二人でいるといつも自分の方が妹だと間違えられると、自慢気に言う。だが菜々子には、美容院で仕事のためにと始終セットされた母の見かけよりも、夫の死とともに白髪で過ごす叔母の女性らしさに、優美さを覚える。
 世田谷の緑道を、白髪の叔母と白髪交じりのロンが散歩する姿を、じっと想像する。
さつきは、レポートの課題という話には、特に疑いは持たなかったようだ。ただ、少し低い声になってこう答えた。

 

 

「それでね、菜々ちゃん。その話なら、ちゃんとお母さんに聞いた方がいいと思う。私がまた余計なことを言ってもいけないから」
「わかった。お母さん、面倒だもんね」
 ただ、生まれた病院を訊きたかっただけなのだが、叔母が母に対して、ある頃から距離を置くようになったのはわかっていた。
「お母さんがあまり忙しそうだったら、また電話して」
「そうするね」
 菜々子は急ぐわけでもないしと、その引き出しを一旦閉めて、電話口で甘えた。
「久しぶりに、サーちゃんの豚の角煮が食べたいな。今度、休みの日に謙太と行ってもいい?」
「あら、謙太くんとも続いているのね。彼はロンのお気に入りなんだ。いつでもおいでね」
 さつきはまた、ふくよかな声になった。

 

 次回につづく(毎週金曜日更新)

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使も務める。
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